橋本裕の日記
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2002年09月28日(土) 毛沢東の復讐

 フルシチョフのスターリン批判は中国共産党をもゆさぶった。その直後、1956年9月に召集された第8会党大会で、集団主義指導体制、個人崇拝の禁止などが確認され、中国はようやく近代国家としての歩みを始めるかに見えた。

 そして、この新しい中国を主導する星は、この大会で国家主席に選ばれた劉少奇と、党総書記に選ばれた��小平であった。この二人を両輪として、中国は近代化の道を歩もうとしていた。しかし、これをよく思っていなかったのが毛沢東だった。

<フルシチョフ演説にならった集団指導体制の賛美は、とりわけおだやかならざるものがあった。もし党が集団指導体制の原則に固執すれば、全党員は対等の関係になり、重要問題はすべて合議制で決定しなければならなくなる。そうなると、いきおい毛沢東の役割は縮小されていく。が、当の毛はあくまで最高指導者としてのポストにとどまりたかった。そのためには個人崇拝がどうしても不可欠だった>(李志綏「毛沢東の私生活」より。以下同じ)

 この決定に侮辱を感じた毛沢東は、これに反撃すべく行動を開始する。その手始めに考えたのが、「百花斉放・百家争鳴」運動だった。これは知識人を使って党を自由に批判させ、劉少奇と��小平が指導する党を解体しようという作戦である。

 多くの知識人はおそらく自分の意を汲んで、党の指導部を攻撃するにちがいないと毛沢東は読んでいた。ところが結果は思わぬことになった。知識人の攻撃は党の指導部だけではなく、党そのものの存在に向けられ、ついには毛沢東そのものに向けられ始めた。共産党は僧院のようなもので、毛沢東はその僧院長だというのである。知識人を使って政敵を打倒する作戦は完全に裏目に出た。

<毛沢東はむろん衝撃を受けた。批判が自分に向けられるようにした覚えが全然なかったからであった。また機関として党が攻撃されるようにし向けたつもりは毛頭なかった。会う人ごとからお追従をいわれるのになれていたし、真の敵は抹殺されるか投獄してあると確信していただけに、毛は知識人がいだく不満の深さに気付いていなかったのである>

<毛沢東は大変な計算違いをしたのだった。ベッドに伏せたきりふさぎこみ、どうやら行動の自由を失っているうえ風邪もひいていたし、外部の攻撃が激化しつつある最中に私が呼び戻されたのだ。毛沢東は戦略を練り直し、復讐の手だてを思いめぐらしつつあった。毛は憤懣やるかたなかった>

 1957年6月8日、人民日報は「これはどうしたことか」という毛沢東の文章を社説に掲げた。知識人に期待することが出来ないと気付いた毛沢東は、自分の作戦を遂行することができるのは、大衆のみだと気付いた。この社説で、ひとにぎりの分子が社会主義政権の転覆を計ろうとしていると非難した。そして、彼等に対する反撃を開始するようにと人民大衆に訴えた。

 知識人を使った作戦が失敗に終わったことを知った毛沢東が次に考えたことは、一般大衆を使うことであった。彼等の間に毛沢東にたいする個人崇拝を根付かせ、熱狂を呼び覚ますこと。この作戦はまんまと成功した。それが「文化大革命」だった。

<全土は毛沢東のバッジをつけて「毛沢東語録」をたずさえ、小冊子にある言葉を暗唱した。商店での単純極まりない買い物をするときでさえ毛沢東語録の暗唱を要した。毛の肖像画はいたるところにあった。全土の何千万という人々が肖像画の前で礼拝し、日々の支持を仰ぐことで一日をはじめた。・・・・

 毛沢東の「大躍進」政策は人類史上でも最悪の飢餓をもたらした。今日ではその期間中にすくなくとも2千5百万か3千万人、もしくは4千3百万人が死亡したといわれている。さらに毛沢東の「文化大革命」は中国を大混乱におとしいれ、生命も家族も友情も、そして中国社会の骨組みまでも破壊してしまったのである。

 国家主席の劉少奇は、毛沢東が第8回党大会の誤りとみなす責任をそっくりおしつけられ、1968年10月に追放されたばかりか、党を除名されwたうえ虐待の限りをつくされた。翌年4月の時点で、劉少奇の消息は一切わからなくなっていたし、知ろうにもこわくてだれにも聞けなかった。第9回党大会が終わってからずっとあとに彼が同年の10月、開封に送られて重病になり、治療も受けないまま11月に亡くなったと知った。

<��小平もまた追放されたのであった。党の中枢機関である政治局は壊滅状態にあった。各省の党の指導者の大半が職を失っていた。各省の行政はいまや人民解放軍が支配する「革命委員会」の手中にあった。第8回党大会で選出された中央委員は大多数が追放されていた。第9回党大会は毛沢東にとって、13年にわたる取り組みの総仕上げであった>

 こうして毛沢東は勝利した。もはや彼の前にたちふさがる目障りな人間はだれもいなかった。彼は彼を権力から遠ざけようとした大量の有能な人物をこうして完全に粛正したのである。後に残ったのは、身内の江青であり、彼の従順な召使いでしかない周恩来その人だった。

<人民大会堂の118号室で毛沢東に自分の考えを説明しようとしながら、周恩来は地図を取り出して床にひろげ、絨毯の上に膝をついて毛沢東に自動車行列の進むべき方向をしめした。毛沢東は突っ立って煙草をくゆらせながら、首相が床をはいまわるのを眺めやった。

 かりそめにも周恩来ほどの人物、中国の宰相がそんあふうにふるまうのを前にして私は目のやりばに困った。毛沢東は周恩来が面前で這い回る姿を見て、こばかにしたような優越感を覚えているようだった。・・・

 毛沢東は周恩来に絶対的な忠誠を求め、もしそれが得られなかったとすれば、周は間違いなく失脚させられていただろう。ところが、周恩来があまりに猛獣的かつ忠実そのものであったため、毛沢東は首相を軽くみるところがあったようだ。

 周恩来は江青の前でも卑屈なくらいだった。・・・林彪と江青の権力闘争が表面化したとき、周恩来は江青とその一党と運命をともにしたのだった。江青が彼に向けたあらゆる攻撃にもかかわらずである。

 周恩来はぬけめのない政治家であり、毛沢東が江青を批判して不仲がすすんでいながらも、彼女はやはり毛沢東にとってもっとも気心の知れた配下だ、ということをほかのだれもまして見抜いていたのである。毛沢東に真の忠誠をつくそうとすれば、江青の側につくことも必要なのであった>

 こうして江青の野心と周恩来の服従を利用し、大衆の心を操作することで、毛沢東の野望は成し遂げられた。彼の絶対権力者としての地位は揺るぎないものとなり、個人崇拝はついに完成したのである。しかし、李志綏が書くように、それは何千万という人々を死の淵においやり、人々の友情と家族を崩壊させ、中国社会の骨組みまでも破壊することとひきかえであった。

<今日の一句> オカリナも いつしか秋の 音色かな  裕


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