橋本裕の日記
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毛沢東が江青と住んでいたのは、中南海といわれる地域である。そこは中海、南海というふたつの湖がある風光明媚な地で、紫禁城を取り巻いた同じ朱色の城壁に取り巻かれていて、非公開の機密の場所である。毛沢東の主治医で中南海診療所の所長だった李志綏(リ・チスイ)もこの地に住居をあてがわれていた。
中南海には周恩来、朱徳、劉少奇、周恩来、彭徳懐、��小平などの要人達も住んでいた。周恩来が首相を務める内閣(国務院)もここにあった。外部からこの地域に入るには厳重に警備されたゲートを通らなければならない。また、域内の通行も制限され、許可証がなければならなかった。党中央警衛団の警備兵が各ゲートの検問当たり、治安に目を光らせていた。こうした中で、李志綏は毛沢東だけでなく、他の要人達や、その家族の健康についても責任のある立場にいた。
林彪と江青が造反派を率いていた文化大革命の最中、中国は大混乱に陥った。党も政府機関も麻痺状態に陥った。中南海の秩序も万全ではなくなった。こうしたごたごたのなかで、毛沢東は中南海を留守にし、地方へ行く機会も多くなった。中南海の警備の責任者である警衛団長の汪東興も毛に随行して、中南海を離れることが多かった。そうすると中南海で江青一派の横暴を止めることが出来る者はだれもいなくなった。
1967年7月13日、毛沢東は武漢へ旅だった。主治医の李志綏はこの旅の随行から何故か外された。こんなことははじめてだった。たぶんそれは江青が毛沢東にすすめたからに違いなかった。
以前から李志綏は江青とそりが合わず、彼女に疎まれていた。警備隊長の汪東興は主席が首都をあければ、江青が指揮権を握り、李志綏はその一派によって拉致されるかもしれないと心配して、「ごたごたに巻き込まれたら、すぐ武漢のわれわれのところに飛んでこい」と忠告した。以下、どのようなことが起こったか、李志綏の文章を引用しよう。
<私は中南海にとどまったが、おかげで汪東興の案ずる最悪事態を目撃する羽目になってしまった。・・・数百人の学生デモ隊が主席が出発したあと西門の外に集まりだし、府右街を中南海の西方まで埋め尽くして、劉少奇打倒のスローガンを口々に叫ぶ。朱色の城壁には大文字の壁新聞がはられ、主席がかって後継者として宣言した人物を攻撃する。・・・
人民共和国の歴史上、中南海が包囲されたことはなかった。汪東興の中央警護団が党幹部の居住区を警備する任にあたっており、デモ隊がふえつづけるのをしり目に警備兵は無表情で立哨する。汪東興がどんな思惑をいだいていようと、この時点ではさしたる重みはなかった。第一、汪は主席と武漢におもむいていたからである。
7月18日、状況は険悪になった。執務室で新聞を読んでいたら警護官がとびこんできて、劉少奇が国務院小講堂の外で「批判闘争」にかけられているという。私はすぐさま現場にかけていった。
人垣ができていた。ほとんどが党中央書記局の下級幹部である。党中央警護団の将校や兵士も見守っていた。劉少奇に少しでも救いの手をさしのべようとする者はいなかった。劉少奇と夫人の王光美は群衆の真ん中に立たされ、書記処のスタッフにこづかれたり、蹴られたりなぐられたりしていた。国家主席のシャツはひきさかれて肌がはだけ、ボタンがいくつかもぎとられている。人々は彼の頭髪をつかんで引きずり回した。
よく見ようとちかづいたとき、劉少奇はつかまれた両の腕を背中にねじあげられ、腰から前かがみの「ジェット式」として知られる姿勢をとらされた。しまいに上半身をたおし、顔が地面にふれそうなところまでぐいぐいおしつけて蹴る、平手でなぐりつける。それでもなお、警護団の警備兵達は介入しようともしない。私はみるにしのびなくなった。劉少奇はすでに70に近く、しかもわれわれの国家主席ではないか。
私は批判闘争の場を立ち去り、まっさきに��小平・卓琳夫妻の住まいに向かい、ついで陶鋳・曽志夫妻を訪ねた。両夫妻とも批判闘争にかけられていたが、劉少奇の場合ほどすさまじくはなかった。両夫妻は群衆におされ、こづかれ、やじをあびせられていたが、蹴られたりなぐられたりはなかった>
李志綏は党中央警衛団の副団長にこの事態はどういうことかたずねたが、彼はこの事態を予測して昨日のうちに武漢に電話を入れたのだという。しかし団長の汪東興からはその後連絡はなかったという。じつは汪東興じしん、我が身の保身で手一杯だったのである。江青一派の狼藉に毛沢東は暗黙の了解を与えていた。というより、この事件の影の主役が毛沢東自身であることを、汪東興はよく知っていたからだ。 <今日の一句> すれちがう 少女の髪に 秋匂ふ 裕
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