橋本裕の日記
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| 2002年03月03日(日) |
日本の政治に必要な三権分立 |
民主政治というのは、「人民の、人民による、人民のための政治」をいう。つまり市民が等しく政治に参加し、その意志が正しく政治に反映されるシステムである。したがって、民主国家において、「法」とは、人民にこうした政治権を保証し、行使させるものでなければならない。
政治や統治を行うための機関として、一般に議会と政府と裁判所がある。いわゆる立法、行政、司法の三権である。近代国家においては、権力の独裁化と腐敗を防ぐために、権力をこの三つに分割して相互に牽制する仕組みができている。
こうした三権分立の考え方を確立したのは、ジョン・ロックとモンテスキューである。彼らは君主権力の横暴な支配からいかに人民の利益(モンテスキューの場合は貴族の利益)を守るかを考えてこれを考案した。時代は変わったが、三権分立の必要性は今もかわらない。
日本のような議院内閣制度をとっている国では、立法権と行政権が癒着しやすい。行政権を担う首相には国会多数党の党首が選ばれる。国務大臣の過半数は国会議員でなければならないという規定があるが、実際には国会議員がほとんどだ。
こうなると、議会と政府は一体化せざるをえない。そして行政権と立法権の相互チェックが甘くなり、なれ合いや談合がおこる。くわえて、日本では自民党の長期政権が続いたために、この癒着がひどくなっている。
さらに、行政権が実質上官僚組織によって牛耳られていることから、国民には政策決定の現場がますます見えなくなっている。それをいいことに鈴木宗男のような族議員が跋扈し、行政に介入して政策決定をゆがめている。
日本では「議員立法」などという言葉がまかり通っている。そもそも立法は議員の本務であるはずだが、実際は役所に任せている。官僚が立法権さえも行使しているのが現状である。
さらに、違憲立法審査権に関して、裁判所の消極的な態度がしばしば問題になっている。裁判権の独立が犯され、肥大化した行政権に呑み込まれてしまったかのようである。
かくして、日本の現状は、三権分立の理想から遙か遠くなってしまった。そもそも権力がどこにあるのか、その正体が見えないのが現状である。権力の中枢が空白であるため、そこにさまざまな部外者が入り込み、政権を私物化している。また、直面する政治的、経済的課題に対して、一貫性のある政策を立案し、実行することができない。
かってモンテスキューは「権力は腐敗する。絶対権力は、絶対腐敗する」と主張した。日本のように三権が癒着した正体不明のぬえのような権力も同様に腐敗する。なぜならすべてが国民の見えないところで行われ、責任の所在がはっきりしないからだ。だれも責任をとらない体制ほど恐るべきものはない。
私はこの無責任体制を解消し、権力の癒着を断ち切るには、議院内閣制をやめてはどうかと考える。官僚と族議員から行政権を国民の手に取り戻すために、首相公選制を実現させるのだ。行政権を確立し、さらに立法権、司法権を確立すべきだと思う。分権というのは、権力を否定することではない。むしろこれをはっきりと確立し、相互に牽制させることである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 参考 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三権分立について、日本国憲法は次のように規定している。 「国会は国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」(41条) 「行政権は、内閣に属する」(65条) 「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」(76条)
憲法は三権相互のかかわり方も具体的に定めている。たとえば、立法権から行政権、司法権への関与は次のように規定されている。 国会は国政調査権を有する(62条) 衆議院は内閣不信任案を可決できる(69条) 国会は罷免の訴追を受けた裁判官を裁判する弾劾裁判所を設置する(64条)。
また、行政権から立法権、裁判権への関与は、次のように規定されている。 内閣総理大臣は、衆議院を解散することができる(54条) 内閣は最高裁判所の裁判官を任命する(79条) さらに、司法権から行政権、立法権への関与は 最高裁判所は「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限」を有する(81条)
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