橋本裕の日記
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記憶力と理解力は学力を支える二本の柱だと考えられている。この二つをどうしたら伸ばせるか、これについては様々な議論がある。現在「ゆとりの教育」が批判されているが、これも学習時間の削減で、こうした学力低下が心配されるからだろう。
記憶力と理解力は相関があるらしい。常識的に言えば、知識量と理解力は比例すると考えられる。ある国について理解しようとすれば、その国についての情報を知らなければどうにもならない。たしかに、知識なしには理解は成り立たない。
しかし、知識量の増加がむしろ理解を遠ざけることもある。雑多で些末な知識はものごとの本質をかくす。知識に縛られて、本筋が見えなくなり、誤った理解や判断停止に落ち込むことも考えられる。学識豊かな学者たちが、現実問題について理解を誤り、有効な方策を打ち出せないことがよくある。
自然科学や数学の分野の研究になると、第一級のものはほとんど二十代におこなわれている。ニュートンにしろアインシュタインにしろ、ボーアーや湯川秀樹でも、DNAの二重螺旋構造を発見したワトソンやクリックでもそうだ。駆け出しの若造が学識のある学者たちを尻目に大きな発見をするのは、彼らが既成の知識や観念にしばられない自由な発想をするからだ。
したがって学力に関していえば、「知識力」「理解力」のほかに「発想力」をくわえて、三本柱で考えるべきだろう。「発想力」とは「構想力」であり、「創造力」「発見力」である。これからの時代は「知識」と「理解」に偏らず、「発想力」をのばす教育が大切である。また、「学力」とは「学んだ力」ではなく「学ぶ力」だという視点も重要だろう。
日本では大学教授や作家などの知的職業人を「知識人」とよぶ。知識がある人という意味では正解だが、彼らが現実に対してどれほど深い理解力を持っているか疑問である。正確な知識に立脚することは必要だが、いわれのない「知識崇拝」、あるいは「知識人崇拝」からは脱却する必要がある。
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