橋本裕の日記
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2002年02月13日(水) ことばの発生

 今は書き言葉が中心だが、文字がなかった昔は、話し言葉が中心だった。また、文字があった近代でも、文字が読めるのは一部の人たちだったから、やはり話し言葉が中心だった。

 話すということも、書くということも、身体を使って行われる行動だが、どちらかというと声を使って話す方が、より身体に密着している。私たちは書いたものからその人を言い当てることは難しいが、声を聴けばたいがいわかる。

 さて、その昔、私たちの先祖はどのようにして言葉を話していたのだろうか。これは推測だが、私たちの先祖は「歌うようにして話していた」のではないかと思う。つまり、話すというよりも、歌っていたのではないだろうか。

 最初は、身振りや手振りが主体で、それに発声がともなっていた。これはゴリラやチンパンジーなどの動物を見れば、想像がつくことである。我が家のイヌを見ても、嬉しいときはしっぽを振り、喜びを全身で表しながら、そしてうれしそうに吠える。

 人間も同じで、言葉には自然にジェスチャーが伴う。いわゆる身体語などといわれるが、発声語もそもそもは身体語の一種だったのだろう。やがて、次第に身体表現から独立して、いわゆる言葉ができあがったのではないか。

 それが証拠に、極度のショックを体験すると、私たちは声を失い、身振りや手振りしかできなくなる。これは退行現象なのだろう。言葉はサルの仲間同士の毛づくろいから生まれたと主張する学説があるが、私はとても信じることができない。

 中国の「詩経」や日本の「万葉集」など、各民族が持っている最も古い文献は、たいがい韻文である。万葉集の場合、相聞歌と挽歌だが、相聞歌は歌垣の場で大勢で踊りながら歌われたものだ。挽歌が公の儀式の場で歌われたことは言うまでもない。

 言葉はきわめて公共性が高いものである。個人的なサークルや交流の中から生まれることはない。集団の祭祀の場に置ける舞踏や儀式の中から生まれたと考えるべきだろう。つまり言葉はその始まりにおいて、「人々とともに在った」ばかりではなく、「神とともに在った」のである。


橋本裕 |MAILHomePage

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