橋本裕の日記
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2002年01月08日(火) 愛することの意味

 人であれ、自然であれ、私たちが何かを愛するということは、その存在を「大切に思う」ということである。ときには愛する存在のために、自らの命さえ犠牲にすることをいとはない。したがって愛とは自己犠牲と自己放棄の営みであるということもできる。

 しかし、人はどのようなときに「愛」を感じるのだろう。相手の存在を「大切に思う」のはどのような時だろう。結論から言えば、それは私たちがその対象と一体感を感じるときである。

 母親が子供を愛するのは、子供が自己の延長だからだ。人が国を愛するとき人は国と一体感を味わっている。つまり人は自分と一体だと思った相手を愛し、愛情を注ぐのである。

 反対に、この一体感を阻害する他者に対しては、「憎しみ」を抱く。そうした存在は敵であり、ときとして殲滅すべき対象である。ここから様々な争いと災いが起こってくるわけだが、憎悪と愛が表裏一体のものであるとすると、愛こそが災いの種であるということもできよう。

 このように、愛が自己の延長である者に対する愛だとすると、それは愛は「自己愛」でしかないということになる。だから私たちが憎悪から自由になるためには、私たちは同時にこのような愛の呪縛から自由になる必要がある。

 それでは、すべての愛がこのような忌まわしい自己愛に過ぎないのだろうか。私は原理的にはそうだと考える。だから、キリストでさえ、「自分を愛するように、他者を愛しなさい」と教えた。これは言い換えれば、「他者を自分だと思って愛しなさい」ということでもある。

 人間はどこまで行っても、自己愛から抜け出すことはできない。自己愛を否定するためのあらゆる修行は所詮むなしいのではないだろうか。一見自己否定であるかのような行為でも、その根底にあるのは自己愛である。キリストは「友のために命を捨てるのは最大の愛だ」(ヨハネ伝)と行ったが、「友」というのは、つまり「身内」であり、自己の延長に過ぎないからだ。

 しかし、それではどのようにして私たちは生きたらよいのだろう。キリストの説く「隣人愛」、仏教の説く「慈愛」は所詮虚妄であり、美辞麗句にすぎないのだろうか。私はそうではないと思っている。愛はあくまで自己愛であるが、ひとつだけ、「自己愛でありながら自己愛でない愛の在り方」が可能なのである。

 それはどういうときかというと、全世界と和解し、全世界を自己と感じるときである。そのとき自己と他者というかきねが一切なくなり、自己が他者であり、他者が自己であるという状態、そのような「無の境地」に達したとき、そのときに限って、自己愛は正確に他者愛と同じ者になる。

 キリストの説いた「隣人愛」はこのようなものである。「隣人」という抽象的な表現がそのことを語っている。同様に親鸞は「自分は父母の孝養のために念仏をとなえたりしない。その理由は、この世に存在するすべてのものが、自分の父母であり、兄弟だからだ」(歎異抄)と述べている。仏教でいう「色即是空」や、ハイデガーのいう「存在のあかるみへの脱自」も、私はこういうことではないかと思っている。


橋本裕 |MAILHomePage

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