橋本裕の日記
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仏教(法華経)では私たちの生命の状態を、�|蝋���餓鬼�C楡賢そね絖タ祐岫ε鍬Ю縞広┗鏗亅�菩薩��仏の十段階で説明する。ここで、� 銑Δ蕨仔擦噺討个譟△い錣罎襦嵬造い寮こΑ廚澄��А銑�が「さとりの世界」である。
�,�ら�Δ鮖拉曚垢襪里蓮嵌冉此廚函崑濃察廚任△襦�この煩悩のエネルギーと打算によって、私たちは目まぐるしく生命の状態を変えながら生きている。これを「六道輪廻」とよぶ。欲望や感情に支配され、つまらない計算をして、ときには人と争い、ときには幸運を手にして天にも昇るほど幸せを感じていたかと思うと、絶望し、地獄に突き落とされて死を思い詰めたりする。
釈迦はこうした浮き草のような迷いの世界を解脱せよと説いた。それではどのようにしてそれは可能か。一口に言えば、四諦八聖道の修行によってである。この修行によって、真理が体得できる。
ところで仏教で説く真理とはないか。一口で言えば「色即是空、空即是色」ということだが、法華経ではもう少し具体的に「10の法則(十如是)」であらわす。釈迦自身に従えば、「因縁果の法則」である。
「因縁果の法則」とは、この世に起きる出来事はすべて、お互いに関連を持ち、相互依存しており、絶対的なものは存在せず、あらゆる存在が相対的なものとして生起するということだ。これを体得することで、私たちは世界の有様を理解し、また自己の煩悩がどこから起こってくるか、その根本を知り、これをコントロールすることができる。
私たちは実体のないものを実体だと思いこんで執着し、こうした悪しき観念や幻想に囚われて、しかもその囚われていることさえ知らないまま、悩み悲しみ、他者に支配され、主体性を失ってあくせくと生きている。「因縁果の法則」によって心身が解脱すれば、一切の存在が「空」であることがわかる。偏見や幻想から解放されて、主体的に、すこやかに生きることができる。
そのとき、煩悩は昇華され、そのエネルギーは心身を清々しく充たし、私たちは煩悩という自我の洞窟をでて、自由で広々とした世界へ歩みを進めることになる。現代的に表現すれば、生存競争で充たされた「競争の世界」から、愛と叡智でみたされた「共生の世界」へ入る。
こうしたさとりを得ようと菩提心を発し、修行するのが�Ю縞垢任△襦H爐録人�の求道者であり、そのかぎりで、煩悩の世界から一歩を踏み出したといえる。そしてやがて彼は真理をさとって�┗鏗个砲覆襦�
声聞・縁覚の世界は「知の世界」だと言ってよい。煩悩に汚染された打算的な知ではなく、真理をもとめる純粋で明るい愛知(フィロソフィー)の世界である。そこにはいかなる権威や偏見もなく、自立的で、自由な思考が生き生きと呼吸している。それはまさに美しい「叡智」の世界である。
しかし、仏教ではこの先に、��菩薩��仏をおく。真理を求めて修行するのが声聞・縁覚だが、菩薩・仏の目的はそうではない。すでに真理を体得した彼らの目的は、そうして得た真理を一切の衆生にわかちあたえることである。したがって、菩薩・仏の世界は「愛の世界」だといえる。菩薩と仏の違いは、菩薩はこれを修行として行うが、仏はごく自然にこれを行う。
「打算と煩悩」「真理と愛」を基本とする10の範疇に分けて私たちの心のありようを説くのが仏教の「十界論」だが、ここでもうひとつ大切なことがある。それは、この十の状態そのものが相互に依存して存在しているということだ。
たとえば善人と悪人で考えよう。私たちはこの両者を一応区分するが、実はこの両者は別物ではない。コインの両側のように、善と悪は張り付いている。いかなる善人であっても悪心を持たないことはなく、また悪人の心の中にも善の心は潜んでいる。
殺人を犯し、地獄の状態に置かれている人間の心にも、学問をして本当のことを知りたいという「声聞」の求道心が潜んでいる。愛する夫を奪われて逆上し、包丁を持ち出してきた妻の修羅の心の中にも、じつは夫を愛する純粋な菩薩の心がひそんでいる。
つまり、それぞれの十界がまたそれぞれに十の世界を内包し互具している。こうした心のありようを、仏教では「十界互具」とよんでいる。十の世界がそれぞれ十の世界をもつので、10*10=100である。つまり、私たちの生命の状態はもう少し詳しく言うと、100の世界から成り立っているわけだ。
これは私たちのその時々の「心の番地」だということができる。たとえば、相手と訴訟を争って勝ち、大金を手にした人間がいるとする。彼はいま天にも昇る勝利の美酒に酔っている。彼の心はまさに「天界」にある。
しかし、それは表面のことで、その浮かれた心の底には争いの心がうごめいている。だから、彼の心の番地は。「天町修羅」とでも言うべきだろう。同様に、将来の栄冠を目差して、他人を蹴落とすべくあくせくと学習塾に通っている受験生の心の住所は「修羅町天」である。
「十界互具」ということは、煩悩の中に叡智や愛があり、愛の中にも叡智や煩悩がある。そして叡智もまた、煩悩や愛の所産だということだ。だからどんな人間にでも、機縁さえ熟すれば菩薩となり仏となる道が開かれている。反対に菩薩の心の中にも地獄や修羅があり、それゆえに彼らは万人の苦しみや悲しみを我がこととして理解することができるのだ。
法華経では、これに「十如是」「三世間」を加えて、三千大世界という。この三千大世界こそ私たちの心の姿であり、また心の中に写し出される宇宙の姿でもある。全世界がそのまま私たちの心(一念)に宿っているという教えを、仏教では「一念三千論」と呼んでいる。
つきてみよひふみよいむなやここのとを 十とおさめてまたはじまるを
あわ雪の中に立ちたる三千大世界(みちあうち) またその中にあわ雪ぞふる (良寛)
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