橋本裕の日記
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高校時代数学が得意でも、大学にはいると、まるで数学がわからなくなり、挫折するケースが一般的である。その理由は高校で習うのは「受験数学」で、本物の数学ではないからだ。受験数学に習熟することで、かえって数学的才能が損なわれているのである。
「受験数学」の特徴を上げると、�〔簑蠅�与えられていて、��必ず解答があり、�7茲瓩蕕譴臣擦せ�間内に解け、�げ鬚�方が指定されている、ということだろう。「受験数学」が対象としているのは、限られた人工的な架空の世界であり、必ずしも混沌とした多様な現実世界を対象としていない。
こうした「受験数学」が日本では幅を利かせているのは恐ろしいことである。なぜなら、こうした「受験生の選別のため」という人間の勝手な都合で作られた特殊に人工的なな世界に適応しすぎると、本当の豊かな現実世界への適応力をうしなうことになるからだ。今日本で起こっているエリート層の地滑り的知的崩壊を、このように読み解くことができる。
実際の数学では、まず�〔簑蠅鯣�見することが重要であり、さらに��解があるのかないのか洞察することも重要になる。�L簑蠅�解けるとして、それに要する時間はかなり長時間になるかも知れない。また、�ぬ簑蠅魏鬚�ために自らその方法も開発しなければならない。
受験数学の達人は受験に出題される、ただ煩瑣なだけのおよそ趣味の悪いこうした人工的な問題は解けても、現実の多様な現象を前にして、ほとんど無力でしかない。数学に必要な創造的能力は、決して「受験数学」に習熟することでは得られない。
現在世界で大学入試に数学を課しているのは先進国では日本だけである。たとえばアメリカの場合、大学入学資格試験として数学を課しているが、大学が個別に数学の試験を実施することはしない。また、入学資格試験として出題される数学の問題は教科書の基礎的なレベルの問題である。
つまり、「受験数学」などという、ただ大学の選抜のためにだけ有用で、しかも学問的にはほとんど価値のないまがいものが存在しているのは、日本くらいのものである。大学生の学力崩壊を防ぐためには、大学入試から数学を追放することが必要だと言える。
このことは物理や化学でも同じである。受験に物理や化学を課すことで、高校生に物理や化学のあやまった概念を植え付け、その学問的受容生を著しく阻害している。ノーベル化学賞を受賞した福井謙一京大教授も「大学の入試制度で理科を課すのは無意味である。センター入試でさえ必要性は全くないからやめたほうがよい」と主張している。
「受験英語」や「受験国語」や「受験社会」なども同様だろう。tenseiさんも書いていたが、国語の問題演習などを解いて身に着く国語力など、本来の国語力のほんの一部であろう。模擬試験で測ることが出来る国語力を、本当の国語力だと教師も生徒も錯覚しているのではないだろうか。
受験国語が幅を利かすことで、本当に必要な国語力はむしろ片隅においやられることになる。ちなみに私が考える国語力とは、「問題を発見し、深く考え、明晰かつ豊かに表現する言語力」をいう。こうした力はいくら受験参考書を読んでも身に着くことはない。ますます視野狭窄で頭の固い、出来合いの鋳型や枠にこだわる欠陥知性をつくりだすだけである。
さらにいえば、「学問」そのものもこうした視野狭窄の構造を本来もっているのだと考えられる。こうした特殊な世界に親しんでいると、あたかもそれが世界のすべてであるように錯覚して、本当の世界への適応力を失うことになる。最近ノーベル化学賞を受賞した野依さんも、創造力の原点として、「小さな頃野山で思い切り遊んだ体験」を上げていたが、まったく同感である。
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