橋本裕の日記
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2000年12月19日(火) 規律と服従

今は下火になったが、私が教員になった頃の愛知県は、まだ「管理主義教育」が健在だった。たとえば教員3年目で転勤した三河の新設高校では、下足箱に入れる下足の方向が決められていて、毎日指導部が名票にチェックしていた。私のクラスにどうしても反対向きに入れる生徒がいて、職員室で正座させられていた。それも私のすぐ傍らで。まるで担任の私へのあてつけだ。

 この学校の一日は日の丸への礼拝からはじまった。校門で生徒は自転車を降り、ヘルメットを脱いで、正面玄関の屋上にたっている日章旗へ一礼をする。これは教師にも義務づけられていた。車で通勤している教師の場合、駐車場の出口に白線が引いてあり、そこで立ち止まって旗に敬礼をする。

 その学校の場合、これとは別にグラウンドに三旗(日章旗、県旗、校旗)が毎朝当番の生徒と教師の手で掲揚されていた。この時、グランドで活動していた部活動の生徒は一斉に活動を止め、三旗に向かって礼拝する。夕方、三旗を降ろすときも同じである。

 管理は生徒のみならず教員にも及び、たとえば職員室の机の上には完全に空にして帰れという。辞書を置いて帰っていた教員が、朝の職員朝礼の時、「○○、教頭の命令は俺の命令だ。ちゃんと規則に従え」と呼び捨てにして叱られたこともある。(この校長は県の教育委員会から来て、4年後に県に戻り、課長、部長と出世し、名門高校の校長におさまり、教育委員長の有力候補だった。退職後、しばらくして交通事故で亡くなった)

 こうした訳で、教師も生徒も朝から晩まで超緊張状態。息苦しい雰囲気が漂い、授業中に呼吸困難に陥る「過呼吸」の発作を起こす生徒が続出し、一時期、教室の後ろに折り畳み式タンカーが常設されていた。こうした息苦しさに耐えかねて、私の友人の英語の先生は転勤3カ月の頃から不登校に陥り、とうとう精神科の療養施設に入院した。(翌年早々と一年目にして転勤)

 まったく規則ずくめの厳しい生活だが、「どんな規則でも規則である以上従わせなければばならない」というのが指導部長(いま某高校で校長をやっている)の見解だった。私は当時指導部にいたが納得できず、一年目に転勤希望を出し、それがかなえられなかったので翌年担任は辞退させてもらい、その次の年に定時制高校へ転勤した。

 新設高校の場合、「どんな規則にでも従順な人間を作ること」が目的で、その為にはむしろ「規則は不合理なものほどよい」という考え方だったようだ。これでは戦前の軍国主義の時代の教育と変わらない。産業戦士や軍人を作るための教育で、とても怖いことだと思う。

 もっとも現在の学校の、規則などっあってなきがごとき無秩序状態に身を置いてみると、下足の向きまで統制されていた一糸乱れぬ整然とした学校の在り方に、一種のノスタルジーを感じることも事実だ。これも危ない。




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