続・無気力童子の紙芝居
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2012年04月12日(木) わたしはきっと永遠に小沢健二に憧れ続けるだろうってこととか

長くなりそうな予感がしています、はとヒです。
日々思うことはありますが、3月下旬からもんわり考えていたことが ようやく言語化されてきたので言葉に下ろします。



3月の下旬に何があったかといってもさほど大きなことではなくて
小沢健二のライブCDBOX「ひふみよ」が届いたことと
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わたしがマレーシアに旅行に行って感じたことが うまい具合にリンクしていた ってただそれだけのこと。



MCでは沢山のことが、分かりやすく例を交えながらシンプルに語られた。
「持っているモノの値段では計れないもの」「危機管理と安全ボケについて」「どの国でも愛される大衆音楽」など。
それらのことは、日々生活している中でも見つけることのできる小さな小さなネガフィルムみたいなもので
”ニューヨークに住む大金持ちの友人は毎日箱から出したてのフレッシュなスニーカーを履いて『先週と同じスニーカーなんてオシャレもできないほど貧乏なんだな、カワイソー』と言う。それは、東京に住む人が『靴に穴あいてるよ、ヒンコンってカンジー』と言うのと変わらない”
というような話。
それを、ひらがなの一音一音を確かめるように、はっきりと、かつスマートに話す。



わたしがマレーシアで感じたような、生活水準の違いだったり、文化や思想の違いだったり、そういうものが
「あるよ」
って キレイに梱包されて目の前に置かれた気がするんだよね。

でも彼の話はひとつのくだりにひとつの意味ではなく、
ひとつの事象から色々な事象に波紋していく。
上に書いたスニーカーの話は、字面だけで捉えて頷く類のエピソードではないと思っている。
「安全」にデコレートされて欧米型に教育された日本人が、ひとたび自転車に乗ればAsiaの血が騒ぐ、とか
『アマゾンの奥地に歩く樹が発見された』と言えば欧米人は科学的にないことを証明したがるけれど、日本人は、『木も歩くかもしれないねぇ』と言う、とか。
仏教っぽい、シルクロードっぽい考えだというのにすごく納得がいった。



最近は書店で「ギリシャ化する日本!」「自殺者3万人超!」なんて文字をよく目にする。
けれど、なんだか違う気がする。
10年前にデュルケームの自殺論を読んだ時だって、日本の閉塞感とは全く匂いの違う類のもののようにしか思えなかった。
薬を飲んだり、体を切ったりして死んでいった友達たちは、社会に殺されたわけではないと思っているし、
わたしは牛や鶏を殺して食べることに常に罪の意識がある。
どこかで野良猫がひき殺されたのも、近所で老人が孤独死するのも、大きな差はないと個人的には思っている。
そういうのって、シルクロードっぽい考え方、なのかな。
イーハトーヴっぽい考え方だと自分では思っていた。



常日頃からわたしたち夫婦は「弱い個体」という言葉を使っている。
この「弱い個体」は遺伝子的に弱い。環境要因も少なからずあるが、出生時にはすでに「弱い」ものとして誕生すると思っている。
進化しそこねた、シーラカンスやハイギョのような、その一部地域だけでしか生息できない生き物。

世の中を見渡せば分かると思うけれど、最近は何でも文句を言う奴が得をしているような気がする。
正直者が馬鹿をみる、まさにそれ。
従来の日本が善しとしてきた謙虚さは見る影もない。
この、図々しい、自己中心的な、視野の狭い、一面的な、
そういう人間がはびこる。

それらと比べると、我々「弱い個体」は、繁殖力が低い。
発見だなんだと言って世界中の先住民を殺戮しまくった欧米人や、
ところかまわず叫ぶように甲高い声を張り上げて喋る中国人が、
いずれ世界を征服してしまうんだろうな、と日々考えている。
(そしていま挙げたどちらの人種も、動物を好きなだけ食べたり殺したりする)



こんなことをわたしは考えている。
特に難しいことでもなんでもない、当たり前のことだと思って考えて、話している。
結婚した相手も、時に納得し、時に訂正しながら会話に乗ってくれるのでありがたい。
でも時々「はとさんって何考えてるんだかワカンナイッスー」みたいな奴がいる。
別にお前に話してるんじゃねぇーよと思うが、相手もわたしの話なんて聞きたくもないんだろうと思っている
何を言いたいかと言うと、ある一定以上の知的水準がないと会話ができないねって話で



マレーシアでは、母国語のマレー語と英語を話す人が多いと聞いた。
でも中国系のマレー人はチャイニーズ
インド系のマレー人はインディア
バングラディシュから来た人は… 
と、多彩な言語が飛び交い、それを状況に合わせて使い分けるのだと言う。

それってすごい!と思うかもしれないが、それってどれも中途半端。
3歳とか5歳でブラジルから引っ越してきた子やその家族と話すと分かるのだけれど
日常生活で使われる単語数は多くないし、文法的にも難しくない。
旅行英語だって、英文法がさっぱり分からないわたしでさえ いざとなれば喋る。
つまりどういうことかというと、いくつかの言語を中途半端に使える状態というのは
複雑な思考には耐えられないということ。
日本語の、言葉一つ一つの色味の違いや、手触り、耳触りをもっと大切にしたい。
日本語をよりよく知り、的確に、美しく、操れるようになりたい。
小沢健二は、それを体現してくれた。



そこで小沢健二に戻ってきて、わたしの中では一周したので着地です。
ひふみよについて語りたいなー、語りたいなー、と思って知り合いを見回したら1人しかいなかったんだよ。
そしてその人の輪郭をなぞると、歳は同じか1こ2こ違いで、京都大学卒だったか…
そこで「あぁ、小沢健二は東大か(正確には早稲田で仮面浪人?)」と思い出し
学歴にはこだわらないけれど一定以上の知的水準って、やっぱり必要かもな、と思った次第です。
わたしは、自分より頭の良い人としか付き合わない(恋愛的な意味で)と決めているので、今の生活に不満はないなあと思いました。


長くなりました
もし誰か読んでくれていたらありがとう


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