日々の泡

2001年09月25日(火) すでにニュースねたでさえなく

もう十日以上も
悶々とした考えを棚に上げて(やっぱり私には時事問題じゃないみたい、
ニュースあまり興味ないし)
風化するのを待っているんだけど、私の考えることというのはたいてい頑迷で、
日にちをおいても新しい情報を入れてもあまり変わることがない。
まとまりなくてダラダラだけど、吐き出しておこうっと。
(こんだけ見る人の少ない日記でなければ、恥ずかしくて書けないなぁ)

‐‐
TVで繰り返し見せられる衝突の瞬間、爆発、崩壊、それから
間一髪で逃げのびた人たちの涙のインタビュー(「消防士がたくさん中に…!」)
飛行機の乗客から電話を受けた遺族のインタビューとか
テレビジョンの国映画の国の優秀なスタッフによる
「効果的」な映像の数々をエンドレスで見せられて、うんざりだ!
…数日たって下火になったが、遅過ぎるくらいだった。

「事件にショックを受けた子供の前でやっちゃいけないこと」(心的外傷がひどくなるから)
という指導内容が後日新聞で紹介されてたけど
「怒りや悲しみをあらわにする」「復讐を口にする」「事件の生々しい映像を繰り返し見る」
「『善人は早死にをする』などと言う」(←ガキは、自分は悪い子だから死ななかったのかと
本気で思う)
などなど、要するにああいう悲惨なことがあったときに当然の人情として
人が「やりたくなってしまう」行動はすべて御法度である。
実際、身近な人が犠牲になったような人に「これをやるな」とはとても言えないけど、
ショックを受けた子供というのはそういう人の近くにいるはずだから、本当に大変だ。
TVでニュースを見て勝手なこと言ってる我々と違って、
直接被害を受けたり救援に当たったりしてる人たちは、壊れそうになりながら
ガマンして助け合っているんだ、と思うと…。

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あの街や、あそこで生活してる人々に直接縁のない者からみると
やっぱり、あのWTCの象徴的なビルが、
観光番組やCMで「ニューヨーク!」と言うときに存在感を主張するアレが
もうないということが最も喪失感が大きいかもしれない。
今まで使われてきた「NYのイメージ映像」も自粛されていくのかなあ。
映画のビデオで見ることがあっても、もう過去のものなんだよね。
個人的には、暇を見つけてちょっとアメリカ映画月間にしてみようか、
と思いついた矢先のことだったが
少なくともNYが舞台のものは当分見たくない。
タテモノにこだわってる私はおかしいのかな、と思ったけど
家とか建物はヒトという動物にとてかなり大事な心のよりどころだから、
やっぱりいろんな意味で現地の人にとってもアレがなくなったショックは大きいよね。

いい意味でアメリカらしい組織的な救援活動なども精力的に行われているようだけど、
一段落したあとも、救助関係者や遺族の感じ続ける喪失感というのは
凄まじいものになるんだろうな。
命もお金も、それからプライドも酷く傷ついたよなあ。
アメリカが国の威信という点でも、ひとりひとりのレベルでも、
大きな心の傷を負っただろうことが一番心にささる自分はなんだろう。
その「傷」に振り回されるような、自分の住んでるとこは多分そんな国だと思うからでしょか。

ところで広いアメリカのこと、田舎に住んでる人から見たら
率直に言って映画の世界とどのくらい違うのだろう?
惨劇の現場を見物に来たり記念写真を撮ったりする心ない観光客
(と聞いて、すわ日本人?と心配してしまう日本人の悲しいサガ)
とか一般市民もいると新聞で読んだけれど、彼らにとって
「パールハーバー」などを見て鼓舞されるのと、実際の悲劇の報道や
大統領演説を聞いて鼓舞されるのといったいどれほどの開きがあるのだろう?
たとえこぞって星条旗を買って掲げているとしても。
そんな市民の反応を正しいものと無思慮なものに判別することはできるのだろうか、
などと我ながら素晴らしくいじいじした方向に考えが行きました。

イスラム世界については縁がないし、コメントのしようはないんけど。
アフガニスタンの一般民衆はどんなに可哀想な状態か、というのが時々紹介される。
あんまりひどい現状だと、かえって
「どーせ国民を幸せにできない政権はやっつけてしまっていいんじゃ」
という感情がこっち側に芽生えそうでこわい。
ま、指導者レベルではそういう感情的な動機で攻撃を決めるわけにはいかないだろうけど。
どのみち戦争になったら弱い者から先にやられるのはわかってるから
「救い出してやる」って言い方はできないし。
宗教に基づいた世界観になかなか口出しはできないし、しても実りは少ないんだけど
女子供を大事にしない人とか集団とか国って、
やっぱり自信がないような気がするのよ…私は。やだなあ。

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ついでだ!
少し前に「アメリカはいいな…」と思ったことがあって、
その感想は今も変わっていない。
この事件のちょうど一ヵ月前、靖国参拝問題で揉めていたとき。

この手の話はいつでも「よそ様はどうしているのだろう?」といった興味を持ってしまう私は
朝日新聞にちょっと出てた、米のアーリントン戦没者墓地の例を読んでみた。
あそこ(一応宗旨宗派はナシという建前らしい)は
名誉ある戦死者として埋葬される「資格」は与えられるが、
そこに入りたいかどうかは本人・遺族の自由だという。
うらやましいな。

なぜヤスクニは強制収容なのだろう?
おそらく「神社」の機能が墓所ではなく、
無念の死を遂げた人の霊を慰撫し鎮めるということだから、
「祀られる」側に選択の自由はないのだなぁ。
勝ったものが負けて恨みをのんで死んだ敵の霊をおそれて宥めるごとく、
言い方は悪いが悪霊を鎮めるごとく、問答無用で収容されてしまうのだろう。
戦争をした国家が、犠牲にした国民の霊を恐れてゴメンナサイという気持ちで建てた
社と思えば、公式参拝こそふさわしいことに思えるけれど…
なんていうか、「身内」に対する仕打ちじゃないんだよね! 神社に祀るのって。
だから、遺族としては「ここで畏敬の念を捧げてほしい」だろうけど、
「でもここが魂の住処だとは思いたくない」という人も少なくないんじゃないかな。
戦犯として死んだ人も、恨みをのんで死んだ筈だから、祀られるのはおかしくない。
一緒にされて平気か嫌かは、遺族の考え方次第なんだろうなあ。
あ〜、なんかサミシイな、神社って。畏怖はあっても愛はない場所なのね。

アーリントンの話に戻る。記事によると
「不名誉なことをして埋葬される資格を持たなかった人もいるけれど、基本的に
ベトナム以前のアメリカでは戦争といったら聖戦だったから、
『戦犯合祀問題』みたいな悩みはなかった」らしい。
そうかあ、昔のアメリカはイスラム顔負けに聖戦だけかあ。
いいなあ(今はとっくに汚れてるけど)。
けど、ベトナム以前の「きれいなアメリカ」の時代にも
「わが国は聖戦なんかしてない!」と批判するアメリカ人は居ただろうし、
そういう人はさぞかし辛い苦しい思いをしただろうけど、
とにかく意見を言うことはできただろう。
そういう自由はなくなって初めて有り難味がわかると思うし、大事にしたいもんです。

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とりあえずこれで終わりにするつもりだ〜。
うっとうしいものを読んでしまった人、ごめんね。


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蟻塔

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