深夜につらつらとメモ(ほとんど考えず書いている)
■最近読んだ本とか
角田光代の『対岸の彼女』を読んだ。とてもよかった。(勝手に)フィクションを書くなら、この人みたいなことをやっていけたらいいなあと思った。それは私がここ5年ほどで、タブーとして言葉に全く出さなかった種類の、自分の本質に関わるような弱さ、汚さ、恐怖についてである。
角田光代は私に似ている。と勝手に思う。「文学賞がとれなかった時、自分はここが悪いんだ、と考えてさらに自分の内面を凝視した」というところや、「話してもうまく言えないことも、書けば伝えられる」(ともに『文藝』のインタビューより)と信じているところ。
村上春樹の「僕らはどこにも行けない」という感覚が、なんとなく分かっても実感できなかったのとは対照的に、角田氏のそれは具体的体験をフラッシュバックさせる「行き場のなさ」であった。
と、そんなことを考えていたら今読んでいる中俣暁生『極西文学論』に村上春樹の「どこにも行けない感じ」について解説してあって、非常に興味深い。
■棒読み
土曜日にかどちんの家で鍋をした時、最近友だちになる男の子について考えてみた。するとみんな「セリフが棒読みで、心がない人たち」だという共通項を見つける。さらに立ち止まって考えてみたところ、私はおそらくそういう性格の悪さを内包している人たちが、誤解を恐れずに言うと「好み」なんだろうな、と思った。
あれだけ、好きだった人に気持ち悪いことを言い続けた末に何だけど、普段の生活なんて、上滑りで実用的な(これは大事だ)会話の連続だけがあればよくて、本当のところ私は私の生活に入ってきて欲しくないのかもしれない。
入ってきて私の生活をめちゃめちゃにして、殴って、汚い言葉をはいて欲しいのは、町田先生だけなのかもしれない。なんてすぐ忘れることだけど。
■仕事
アルバイトさんの取材で、映画館のスタッフさんに会う。またひとつ、いい話を聞いた。仕事中、あるおじいさんに図書館までの道を聞かれ、歩いて案内してあげた。そうしたら後日、「お礼に映画を」とわざわざ彼に会いに来てくれたのだという。こういう生活の細部を教えてもらった瞬間は、仕事を忘れて本当に鳥肌が立つ。
■だからこんなにきれいなものを
深夜、あゆみブックスから早稲田通りを歩いていると、妙な安心感が体を覆う。同時に、「結局あなたはこの思い出から抜け出せないのよ」と言われている気分にもなる。あの日の私の気持ちが甦る。例えば、学食に走る秋の昼下がり。夏目坂のデニーズでおそばを頼んだ深夜。きっとそれは、どこにも行けない私が行くことを欲する、どこでもない場所なのだろう。ぼんやり空を眺めた。穴八幡の斜め上に、丸い月が見えた。
|