久しぶりに友達と長電話。夜中の一時から朝の5時すぎまで話した。眠る前に「ありがとう」と言った。
読んでいる本の話をしようとしたけれど、分かっていたつもりのことが、言葉で説明しようとする瞬間、形にならなくなる。これを「理解していない」と呼ぶ。話題にしたのは岩波書店の『文学理論』だ。
デリダは書く。「これらの補遺の連鎖を通して、一つの法則が浮かび上がってくる、際限なく続く連鎖の法則が。次々と介在してくる補遺はモノそれ自体がそこにあるような感覚を、物自体を印象を、直接的にそれが現前する、起源を知覚したといった印象を生み出す一方で、物自体を先送りにしてしまうのだ。直接性は派生的なもの。すべては媒介から始まる」と。これらのテクストは、物それ自体が現前することの重要性について多くを語ろうとすればするほど、媒介物が必要であることを示すことになる。
・・・実際は、デリダの有名な言葉を使うならば、「テクストの外部というものはない」と言うことを示しているのだ。記号とテクストの外側へ出て、「現実そのもの」へ到達したと思っても、そこにあるのはさらなるテクストと、さらなる記号と、補遺の連鎖なのである。
ある人が現前することは、「常に媒介と補遺を必要とする、ある特定の不在のあり方である」ということらしい。難しいっす。
電話では、「あがり」の人生なんてくそくらえだ、ということを熱っぽく語った。あがらないなりの傷みはあるだろう。努力も必要だ。けれど先が見えるなんて、手を伸ばすことをしないなんて、そんなにつらいことはきっとない。ああ、それにしても私の友達は本当によく勉強している人が多い。尊敬し見習いたい。
土日、両方とも出勤で結構ぶーたれていて、早く帰ることばかりを考えて働いていた。なんでわたしばっかり!と思い始めていた矢先、日曜日の夕方頃に、ご飯を食べながらほげほげと『ファインディング・ニモ』の話をしている先輩を見て、「ああ、まったく何をかりかりしていたのか」と反省した。
もっと大変な人を助けるのが私の役割だったのだ。何をやったらお手伝いしている相手は、版元は、(さらに言うなら読者は)喜ぶのかを、いつも考えることを心がけたい。求められたものも満たせない人に、自分が満足する物を作ることは出来ないと、少なくとも今はそういう気がしている。
という話も電話でした。普段何にも褒めてもらえないけれど、それだけは「偉いのー」と普通に言ってもらえて、別にだから何だって訳ではないけれども嬉しかった。ずらしてずらして裏返して、人間関係をしている。ずらしてずらして裏返して、その先に何が残るのかをいつも見極めようとして。しかし、本当に大切なのはそんな残りかすなのかとたまに疑ってしまう。
2週間ほど前、以前付き合っていた人と話す機会があったのだけれども、いつもいつもへこんでいる相手にどうやって面白い話をしようか、本の謎解きをしようか自分のリアリティを、実感を伴って伝えるには?と考えあぐねていた頃にはあり得なかった、普通の話が出来た。本当に普通の、最近何読んだの、だとか、すきなひといるの?だとか、松本大洋の気持ちが分かるんだよね〜とか、他愛もない若者の会話。
お茶を飲んで笑っているだけで、何が悪いのだろう。笑っていたらそれだけで、笑っているということだけができる。
先日メールで教えてもらった山形浩生さんのサイトを、たまたま仕事で見つけた。プロジェクト杉田玄白という、翻訳テキストを置いてあるページ。そういえば不思議の国のアリス、ちゃんと研究しなきゃ。
|