| 2003年08月20日(水) |
I NEVER FIND ANOTHER WAY TO SAY I LOVE YOU MORE EACH DAY. |
私が数日前に書いたバスケットの話をきっかけに自分の記憶が蘇った、とインターネット的後輩(だってまだ高校生よ!)が書いてくれた(→go!)。とても嬉しくて、千と千尋のキャッチ、「一度あったことは忘れないものだよ、思い出せないだけで」という素晴らしい台詞を思い出した。
触発されて、その続編を書く。
「れいこはきっと世界にはばたくぞ」ミニバスの送別会の部屋の隅で、こっそりコーチがささやいてくれた言葉が忘れられない。別に本気で世界にはばたくわけがないのはさすがの12歳でも賢い女子だった私は知っていて、でもコーチはその時本気なのだと、子どもなりに分かったから、それがさらに嬉しかったのだと思う。
6年生の1月に、ミニバスケット対抗の駅伝県大会があった。バスケットとは関係ない。ただ走る。私は相変わらず18番の背番号で、後ろから3番目で、それでも何故だか1区を任せてもらえた。(放課後一緒に練習をしていた友達はアンカーだった。)そして、本当に何故だか分からないのだけれどトップタイでたすきを渡した。調子がいいと、走っている時の記憶は、ほとんどない。
この大会がきっかけで、私は中学で陸上部に入ることになった。コーチがおまえはこれから伸びる、と強く押してくれたことと、その年の学校の持久走大会でいい成績がとれたことも大きかった。今考えると、レギュラーになれなくてもバスケ部に入っていたら、と思うこともある。平凡な選手だったかもしれないが、それでもスポーツすることを嫌いにならずにすんだのではないか。
私は今でも走ることが大嫌いだ。中学三年間、大嫌いなことでどうにかこうにか勝ち続けようと頑張ってしまったせいである。
陸上部で、私は中長距離(1500メートルと800メートル。意外と思われるかもしれないが女子だとこれよりも長い距離はない)の選手だった。なんということはない、県大会どまりの力である。それでも、県大会に出場するための地区予選で一位になることが、いつからか私の課題になってしまった。学校の朝礼で「一位、松尾麗子」、と名前を呼ばれるために走るだけだった。
課題になったらもうだめだ。最初のころ、さらに言えば小学校六年のあの駅伝大会の頃にできていたを、全て忘れてしまった。走っている時に自分の疲れについて考えだしてしまい、後ろばかりが気になる。当時は一人で毎日家の周りを走ったが、一人の練習でさえ後ろから誰かが追ってくる感覚がぬぐい去れなかった。
中学校にはたくさん、長距離の行事というものがあった。持久走大会、駅伝の選抜、体育祭の長距離走、地域のマラソン大会--。それらすべてに、”陸上部の長距離選手”として出場することが、私にとってはまた地獄だった。二年生の冬は、駅伝大会の練習に明け暮れた。ウォーミングアップで10キロ走った後に、毎日順位をつける5キロ走がある。このタイムで選抜を決めるのだ。
周りにはライバルがたくさんいた。バスケ部では補欠だけれど根性ならだれにもまけない、とか体は軽くてやせすぎって言われます、とか皆それぞれに売りがあって、私だけがただなんとなくここに集まってしまった気がした。
走っている途中に、苦しくて、歩いてしまったことがある。一度歩いたら癖になってその後すべての練習で完走できなくなった。それでも、毎回どうにか3位までには入った。そして私は選抜になった。歩いている時、「おまえは世界にはばたくぞ」と言った小学校時代のコーチの言葉が浮かんでくる。そうだ、止めるわけにはいかないんだ、とどうにか足を動かすだけ。とにかくスタートラインに立つところから、ゴールした瞬間に次の大会が浮かぶところまで、走ることに関するすべてが苦痛だった。
「持久走大会をしたら爆弾を仕掛けるぞ」という脅迫文がある中学校に送られた--当時そんなニュースが流れた。当然自分ではできないから、うちの中学にもそれがくることを、私は心の底から祈っていた記憶がある。
しかし21歳になった現在、私は結局履歴書に「特技:長距離走」と書くことにしている。バスケットも走ることも、結局途中で投げ出して、スポーツというスポーツから逃げて逃げて生きている私がこんなことを書く資格はないのだが、それでもあれほど辛く、ある角度から見れば為になった経験は後にも先にもなかっただろうという気がするのである。
ミニバス時代、一緒に100本シュートを打った友達とは中学が別れ、彼女は北中学校でキャプテンになった。ああ、やっぱりどんどんうまくなるなあ、杓子定規な動きしか出来ない私じゃあかなわなかったかもなと一度試合を見て感心した覚えがある。
その後、彼女は私が知らないうちに、何も話してくれないまま、拒食症になった。ひどく痩せていた。小学校くらいの、「大人から見ると」何も考えていない時期(本当はそんなことないんだけど、もう私も大人だから忘れている)の才能や能力が、少し歳がいってそれを意識したと同時に潰れていくことを、本当に痛々しく思った。去年くらいにしばらくぶりに彼女に会った。「高校でもバスケばっかりしてて浪人しちゃったけど、大学でもまだやってるよ」、と笑っていた。体も普通に戻ったようで、安心した。
「僕は昔の話はしたくないんですよ、結局それって自己満足な自慢話でしょう」。作家の平野啓一郎が、以前テレビで話していたのを見て、ああこの人の過去はどんなにか輝かしいことでいっぱいなんろうとうらやましく思ったことがある。昔を語っても、辛い辛いで埋め尽くされてしまう私の三年間もある。しかしそれが結局は現在の自分の下敷きを作っている気がする。私が今しているこの生活も、数年後にバスケットや完走できない長距離走とごたまぜになって私を作っていくのだろうと、それだけのことなのだという気がする。
覚えている事の価値を私は知らない。あなたのようにすぐに忘れて生きていけたらそれはそれでいいこともあるのだろう。それでも記憶があるのが私なら、せめて文字におこしてドラマティックなふりでもさせていただくことにするから、怒らないで読んでね。
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