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管理日誌「庭園の午後」
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2003年09月30日(火) 小説、戯曲、詩

 9月11日の日誌でも触れた話なのですが、小説と戯曲(シナリオ)は別のものです。
 文字で表現され、ストーリー性を持った芸術(文学)には、大きく分けて代表的な三つのジャンルがあります。
「小説」「戯曲」「詩」です。
(日本文学の場合だと、これに「日記」が加わるのかもしれないですが……専門じゃないんで知りません(>_<)! 言及を避けます)
 ですから、ストーリー性を持っていて文章で表現されているものなら「小説」であるとは、小説を定義することはできません。
 言い方を変えると、自分は「小説」を書いているのだと信じている人の中には、実は小説でないものを目指しているのに、それに気づいてないというケースがあるかと思います。

 歴史の古い順に並べると、「詩」「戯曲」「小説」です。
 詩でストーリー性? と奇妙に思われる方もいらっしゃるかもしれないですが、詩はもともと、ストーリーを語るためのメディアでした。「イーリアス」とか「ローランの歌」とか「長恨歌」とか、(年代めちゃくちゃですが) 古典・神話にあたる作品は、小説でなく詩の形式で編纂されたものが殆どです。
 なんでかっていうと、昔は本に印刷することがあり得なかったので、詩人や楽師が口伝(くでん)により、人々に物語を語ってきかせていました。つまり昔はストーリーというのは、「読む」ものではなく「聴く」ものだったわけですね。
 語って聞かせる以上は、聞き心地のよい言い回しが求められます。雰囲気を盛り上げるためにBGMも演奏しつつ弾き語りなんかもしてしまいます。自然と、音楽的なリズムと相性の良い「文体」での作品となります。そういう文体を韻文(いんぶん)といいます。まあ何か、細かく言うのもアレなんで、「詩みたいな文体」と思ってください。

 詩はひとりの詩人がうたうためのものですが、戯曲は複数の役者が演じてみせるためのものです。どちらも、「聴く」ためのメディアとしての発祥です。
 しかし小説はそれとは異なり、「読む」ためのメディアです。
 その後、「小説の朗読」「読み聞かせ」などの「聴く小説」という新しい芸術分野も誕生しました。それはそれとして素晴らしいものでありますが、小説の根本とは違います。小説は、文字として読む時に読みやすく、演出上の最高の効果を発揮するのが本懐です。音読したときに美しい文章を目指せとかいう人もいますが、読者の呼吸を読めというのは、あくまで読む時の「呼吸」であり、音読したときの息継ぎのタイミングとは違います。音読に最適化して調整すると、なんか微妙に読みにくいものになってしまったりもします。
 参考のために述べると、映画の脚本翻訳では、吹き替え用のものと、字幕用のものとは全く別の文章を用意するそうです。なぜならば、音として聞いて理解しやすい文章と、読んで理解しやすい文章が違うからだそうで。小説にも相通ずる観念と思います。

 それに対して詩や戯曲は「聴く」メディアで、先述しましたように本来は文字として読むものではないですが、印刷技術の普及により、まず「読み物」として触れる機会のほうが多くなりました。自宅にお抱えの吟遊詩人がいて、毎晩違う物語を弾き語ってくれるというお宅の方なら別ですが、たいていの人にとって、詩は詩集で読むものです。
 でもここで重要なのは、やはり詩が「聴く」もの、音読された時に美しい韻律を持っているべきものであるということではないでしょうか。韻律を求める観客と、それを目指す書き手のための芸術です。

 バスケットボールとバレーボールが違う競技であるように、囲碁と将棋が異なるゲームであるように、小説と詩は違うのです。
 検索エンジンに登録される作品ページを確認していると、たまーにですが、バスケットのボールを使ってバレーボールをしてる人を見かけることがあります。それって……手が痛くないですか(-_-;)? もしや、あなたの目指したい、あるいは適性のある方向性は、小説ではなく詩なのではないですか、とモヤモヤします。

 詩のような韻律を取り入れた文体というのも、小説にはあるのです。ちょい昔の日本の文学では、格調高い漢文調で執筆されているものでしたし、現代でも、小説に韻律の美を求める読者様は大勢いらっしゃるでしょう。
 それでもやはり小説の根本は「叙述」です。韻律は演出上の機能にすぎず、単なる添え物であって最低限必要な要素ではありません。
 あくまでも韻律を追求したい場合、その書き手にとってのメジャー路線は、詩の分野ではないでしょうか。
 まあ勿論、それを敢えて小説の分野でやるということに芸術性があることはあります。新文体、独自文体の開発は、小説を書く人間にとって当たり前の努力のひとつとも言えます。

 しかしぶっちゃけた話、初心者が基本をすっとばして、玄人芸に挑戦するというのは、なんだか無謀ではないかと。そういうのは基本的な叙述文体をマスターしてから、手をつけるものなのではないかという気が、個人的にはするので、(私は頭がカタイのかもしれませんが)
 この人の文章は韻文方面だろうというのを目にすると、本来なら詩の分野で精進すべき人が、自分が書きたいのはストーリーだからという、見当はずれな理由で、小説の道に分け入ったものの、やはり天性のものには逆らえず、微妙にその道からそれて、「小説」街道と「詩」街道の中間にある樹海に分け入り、遭難してるんじゃないかというような、かなり行きすぎの余計なお世話的心配を感じたりします。

 そういう人は、まずは素直に、詩を書いてみるのが良いのではないでしょうか。
 ストーリー性のある詩のことを「叙事詩(じょじし)」といいます。(これに対して、気持ちを語るための詩のことは「叙情詩(じょじょうし)」といいます。小説に、叙事性の高いもの・叙情性の高いものの区分があるのと同様です。)
 小説の文体にどうもなじみが悪いワ、という自覚症状のある方は、試しに叙事詩を書いてみるというのは、いかがでしょうか?

 まあしかし、残念なことに、叙事詩は現代ではあまり執筆者がいません。叙事詩の書き方のハウツー本やウェブサイトがあるとも思えないです(汗)
 叙事性(叙述性)の点では、小説のほうが優れている面があり、叙事性の高い作品を書こうという場合、小説の技法を選ぶ書き手が多いのが、その理由かなと私は推察しております。
 元々、小説というのは、叙事詩を書きたいけど韻律のある美文を作れなかったやつが代用品として生み出した廉価版メディアなんだとかいう説もあるそうで、小説より叙事詩のほうが執筆技術的に難しいという面もあります。(小説より叙事詩のほうが芸術として優れているという意味ではありません。)

 そんなふうに様々な背景はあるにしても、その道が険しいかとか人気があるかとかいう次元を越えて、自分のための道っていうのが、あると思うのですね。
 私の場合は小説でした。小説以外は書けません。たぶんそれが私の道だから、他の道は歩けないということなんだと自分では思ってます。一芸でもやっとなので、もう一足のワラジをはく足がありません。一足しかはけないなら、自分にとって一番ぴったりなワラジがいいです。

 ネットでは、詩の分野も盛んなようなんですが、気持ちを語るための「叙情詩」のほうだけが隆盛なようです。そこから初めて詩に触れる人だと、詩というのは、そういうものだ、気持ちを書くものなんだ、と勘違いするのも無理はないし、誤った固定概念に縛られるということもあるでしょう。
(小説とはストーリーを書くものだというのも、ある種、似たような誤解です。小説は一連の流れを「叙述」するものであり、叙述する対象が何であるかは問いません。)

 文学というのは、「読むプロ」を養成するための専門コースなのでありまして、その対象となる作品を書く人にとっては、直接なにか参考にできる情報を学べるわけではないのですが、「作品を鑑賞する」能力をものすごく研ぎ澄ました人物と出会える分野でもあり、作品を読むということの真髄に出会えます。
 そこで聞いたマメ知識によれば、幸福な作家になるための条件とは、自分ための大勢の熱烈なファン、数人の厳しい批評家、そして一人の優秀な文学者に恵まれることなのだそうです。

 私は個人的に、小説の読者と作者の関係は、恋愛のようなものだと思うのです。(そういう書き手さんは結構多いので、たぶん実際にそうなのでしょう。)
 ファン(一般読者)の人というのは、素朴で善良な恋人です。作品のいいところを純粋に好きになってくれますし、フィーリングが合えば楽しいひとときを抱き合って過ごすことも可能ですが、ささいな事がもとで嫌って去っていくこともあります。若い日の恋愛みたいなもんですね。
 批評家は同棲相手のようなもんです。ものすごく深く愛してくれて、濃密な付き合いができる反面、他人が気にしないような些細なことで、ぞっとするような文句もいいます。悪縁になると引っ越しても引っ越してもストーキングしてきて、罵詈雑言の悪戯電話をかけてきたりもします。でもまたそれも濃密な付き合いです。
 文学者は長年添い遂げる夫か妻のようなものです。作品の良いところも悪いところも知り尽くしていて、あえて褒めも非難もしませんが、片方が「秋ね…」と言えば、「秋だね」と応えます。それだけで心が通じ合う、そういう奇妙な相手です。
 恋愛にもいろいろありまして、そのどれもが良い経験であろうとは思います。自分にもそういう愛される作品を書ける日が来ると信じて、ひたすら書き続けることにしましょう。

 ところで運命の恋人と出会うためには、運命的なランデブー地点に自分がいる必要があります。それが小説の道である人は、そこでいいのですが。その相手が別の道で待っていそうな人は、道を変えるのも、吉かも?
「幸運は待っているだけではダメよ、自分から行動しなきゃ。(お節介な女友達ふうに)」

 たとえば詩の検索エンジン「ポエムサーチ」さんとか、ぼえなびさんとか、ぽえさ〜ちさんとか、いろいろ存在してるのだなと見つけて関心を持ってみたり。ほ〜。なるほどね〜。


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