目次過去未来


2007年10月03日(水) 沖縄で十一万人? と法廷ライブ



 あの秋田の信じられない事件、我が子が魚を見たいと言うので、橋の上まで連れて行った際、欄干に腰掛けさせ、背中を押して川に突き落とし溺死させたあの事件、後日近所の子供に見られた?と思い、その子も殺した、新聞が書くところの「鈴香」容疑者の、法廷ライブを産經新聞のweb版でやっていた。
傍聴した記者が、速攻でネット上に証人、被告、裁判官弁護士のやり取りを書いていた。

 我が子我が家族に手をかけるという異常事態は、この前大阪地裁で傍聴した沖縄集団自決、軍が命令したかどうかの裁判、の出張裁判が先月沖縄(非公開)であったが、その時の証人、軍命令があったと主張する金城重明(当時、島民)という人の事を思い出した。この人の言い分では、軍から手榴弾が二個づつ配られ、一つは攻撃用、残りは自爆用だと言われたという。この人は、家族が死にきれないので、自ら家族に手をかけて殺した。
 戦後、人間の最も深刻な葛藤、結局自分は生き延びてしまった事へのどうしようもない苦しみからだろうか、確か牧師になっていた。昔読んだ本にはそう書かれていた。

 特攻隊として出て行った赤松隊が、現地の人達に指し図したり、まともな迎撃用の迫撃砲や、手持ちの銃さえない隊が、住民に手榴弾を与える事自体不自然だと思っていた。やはり、この前の沖縄での裁判で、この金城(重明)証言がかなり怪しいものだと解って来た。生き残った人で手榴弾を実際に受け取った人が見当たらないらしい。( 訂正10・4 →軍命令ではないと言い切る、集団自決で生き残ったもう一人の金城(武徳)さんによると、どこから持って来たか、手榴弾は二十人に一・二個もらったと言っている。手榴弾が島民の手に渡っていた事は事実のようである。ただし金城重明発言は微妙に違う)。
最後は「軍の命令」が、渡嘉敷島だけに降りたと主張したようで、普通は「手榴弾で自決せよの」命令が、渡嘉敷だけに限定されるなんて、軍のネットワークから見て、ありえないし、どちらにしても記録に残る。
さらに「天皇陛下万歳」を言って自決した事は、軍の命令と同じだと言っている。なんか滅茶苦茶な言い分である。

 気になるのは、、アメリカ軍は善で、日本軍は悪だという空気でものを言っている(戦後発刊の鉄の暴風の論調も)事だ。
 戦時、ろくに装備も持たない島に対して、硫黄島のごとく、島民が居るにもかかわらず無差別に砲弾を雨霰と落とした米国に対して文句を言わず、元々は特攻隊として命令を受け、ベニヤ板の船に爆弾を抱え、夜闇に乗じて島から米国船隊に体当たりの任務を負った赤松隊に対して、鬼畜のごとく糾弾するこの金城と言う人は、異常事態下において、自分のやった行為の責任転嫁の形で赤松隊長以下を糾弾しているとしか思えない。特殊状況下に置いての責任なんて誰にも追求出来ない。金城さんを誰も責めない。同じように赤松隊を名指しで特定し責める事も出来ない。自発的な死は尊厳死として島民の崇高な精神としてこちらに訴える事は氷雪の門と同じであるのに無理矢理命令でというのは事態として醜い。

 赤松隊特攻の夜は、隣の島から来た上官の沖縄本島への送還の命を受け、最後のチャンスの攻撃を断念し島に残る。後、降伏、敗戦。

 戦後、わずか二人の証言を元に、沖縄タイムスは集団自決を含んだ「鉄の暴風」というかなり怪しい本を出す。この二人は、実際その場に居た人ではなく、すべて聞き覚え、噂の域を出ない証言を元に鉄の暴風は編纂されている。おまけに内一人の証人はそういうインタビュウを受けた記憶が無いと否定している。これが、全ての始まりで、後はこの本(厳密には三冊ある)の孫引きで作られていると言ってもよい。  

現在沖縄で十一万人?が集まり、沖縄集団自決が教科書から消えた事に対して、反対している。間違えてはいけないのは、集団自決が「あった」事と、「軍命令があった」事とを混同してはいけない。
裁判の争点は、「軍命令有りや無しや」なのであって、集団自決有無の争いではない事だ。
いくら、何万人集まっても、例えば2+3=5なのであって6にはならない。人数は関係ない。この集められた人々は、自分で書物一つひもとく能力はないのだろうか。最近どんどん事実が分かって来て、軍命令はないと言う事が解り始めて、強制性(あの従軍慰安婦で強制はないと解った時点で出て来た)という概念をまたも持ち出そうとしている。

 沖縄集団自決訴訟なども、記者がライブで法廷の様子を伝えてくれるとありがたい。先月、大阪地裁に傍聴に行った時も、午前中の赤松隊の知念副官証言はもとより、午後、用意してもらって居た席が一杯で、前半は図書館で過ごし、後半だけ傍聴出来たが、半日つぶれてしまった。ネットでやってくれると本当にありがたい。途中からの傍聴は、流れに追いつくのが大変だった。


本件で争われているのは、渡嘉敷島の赤松戦隊長と座間味島の梅澤戦隊長(原告梅澤)から自決命令が出たか否かであるという点。大阪地裁で被告側証人にたった宮城晴美さんは、自分の著書を書き直してまで(自分の母親が言った「軍命令はなかった」、座間味村史の中では、軍命は確認出来ず、と言う事に関して)「隊長命令」があったように持って行こうとしている、母は嘘をついていると言うのである。聞いていて自分の母親を信じていないのは、悲しく思った。

氷雪の門
北海道の北端、樺太の対岸に位置する稚内西側の小高い丘陵にある稚内公園「氷雪の門」の傍らに、昭和20年8月20日、樺太の真岡電話局で、9名の若い女性電話交換手が、迫りくる戦火の中、崇高な使命感のもとに職務をまっとうし、ついに青酸カリで自決した事実を知らせる慰霊碑「九人の乙女の碑」がある。

碑文

「戦いは終わった それから五日 昭和二十年八月二十日 ソ連軍が樺太真岡に上陸を開始しようとした その時突如日本軍との間に戦いが始まった 戦火と化した真岡の町 その中で交換台に向った九人の乙女らは 死を以って己の職場を守った 窓越しに見る砲弾の炸裂 刻々迫る身の危険 今はこれまでと死の交換台に向かい 「皆さんこれが最後ですさようなら さようなら」 の言葉を残して静かに青酸カリをのみ 夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争はふたたびくりかえすまじ 平和の祈りをこめ尊き九人の乙女の霊を慰む」



→2001年の今日のたん譚 亡国の建築













myrte21 |MAILHomePage