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今、イラクに日本の市民団体と、新右翼の一水会、それと平和を売り物にして稼いでいる、沖縄の歌手の喜納昌吉が、「戦争反対」のデモに行っている。市民団体とは多くの場合、左翼の団体である。右翼と左翼が同じ穴の狢(むじな)であることは、2002年01月19日(土) 「報道の不思議」に書いた。だからここでは言わない。
沖縄の歌手の喜納昌吉は、9.11テロの感想としてこんな事を言っている。
「今回の同時多発テロで犠牲となり亡くなった人たち、天国にいる人たちの魂がですね、本当に今回のような報復という形を望んでいるかということです。つまり「報復」という行為は、今生きている人たちが「報復」を選んだのであって、犠牲となった人たちの魂ではないんです。テロが悪いことは、誰も知っています。世界中の人たちがです。でもそのテロが生まれてくる背景というものを生きている我々は考えなければいけない。」
テロで犠牲になった人が、すべて天国に行けるとは初耳で、この場合、天国にというからには、宗教はキリスト教の事だろうが、死んだ人はすぐに天国にはいけないのである。だから、カタコンベや土葬で、人は生前の姿形を残し、神の「最期の審判(地獄行き天国行き)」を待つのだ。生きているときには、ちょっとでも神の心証を良くするためにも、慈善や奉仕運動に精を出す。
日本は歴史的に見ても城壁がない社会で、よく行く南仏アビニョンにも、中国南京他にも都市を囲む城壁がある。地続きがゆえに、あらゆる敵が入り込む。それを自分達の自由と、今で言う「人権を」守るために結束して戦った。一端屈服すれば、すぐに他民族の奴隷となった。奴隷(エジプトの王朝などで言う奴隷とは異なる)とは一切の自由人権が奪い取られるという事である。 「自由や人権」は、武器を持ち戦いで勝ち取った物であり、他民族との話し合いで得た物ではないと言うことを、城壁のない日本人は忘れてはいけない。
また、「報復は死んだ人が本当に望んでいるのか」と言っているが、現世は生きている人のためにある。死んだ人の弔いのための葬式も、お墓も、仏壇も、生きている人のためのもので、死んだ人への思慕や対話の場として用意されているものだ。
また、「地球上の人の命はすべて、大切で、平等だ。困った時はお互い様です」 などとも言っている。 平等でありたいと願い、それに向かって生きていくのならまだしも、「平等」という概念を疑いもせずに掲げて、「武器を楽器にすべて変えよう」などと言う。 平等は辞書によると「全ての物が一様で等しいこと」とある。これは共産主義の考えである。この試みがすべて失敗していることは歴史が証明している。 多分、喜納昌吉が使っている楽器も、大量生産物の安物の楽器ではなく、誰もに垂涎(すいぜん)の的となっている名器を使っているだろう。平等の世界からは、名器や名車は生まれてこない。非情な競争の中から、才能の有無の中から、闘い勝ち残ったものが名器となり名車となる。 ただし、雌雄を決する機会の「平等」はある。
日本に住み、自国を自国で守れず、アメリカの核の傘下にいて、守られながら、北朝鮮には何にも言わず、直接関係ないイラクに行ってなんで反戦歌を歌うのだ。
安易に、侵犯された都市テロの報復から続く、イラクへの戦争行為を、平和や博愛からだけで、独裁者の存在を無視してなぜ批判するのか。少なくとも今のアメリカはルールに沿ってやっている。もしアメリカに一言文句が言いたいのなら、安保をやめ核ミサイルを装備して、国家の主権を獲得してからいうべきだろう。
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