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2002年08月14日(水) 蜩(ひぐらし)



 夏の山旅の終わり近く、深山の峰をはるか下にある村に向かってひたすら下っていると、日暮しのかな・かな・かなという鳴き声が決まって聞こえて来る。それは祭りの後のなんとやらと同じような、一種独特の寂寥(せきりょう)感がある。日暮しにはつい最近までそういう風なイメージを持っていた。遠くで鳴いている、あぁ、夏も終わりだなぁと言うような。

ところが、先日夕暮れ迫る頃、庭のクスノキに日暮らしが一匹やって来た。そうして鳴き始めた。「かな・かな・かな・かな」まぁ、その鳴き声の喧(かまびす)しきことこの上ない。

わずか二・三メートル下で聞く日暮しには、寂寥感も何もない。ただ異様に通る鳴き声に驚くばかりだった。秋が来たなんて露程にも思えない。現役のミンミンゼミやつくつく法師より鳴き声は大きい感じさえした。趣一切無し!

 蝉と言えば昔、芭蕉の「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」の中の蝉をめぐって、歌人の斎藤茂吉と、小宮豊隆と言う人が、論争をしたことがあった。茂吉はあぶらぜみ、小宮はニイニイぜみと譲らない。芭蕉はこの句を、陽暦七月十三日頃の山形県・立石寺で詠んだと言われている。茂吉の主張する、あぶらぜみは山形では7月中旬〜8月中旬、小宮のニイニイぜみは6月中旬〜8月中旬だということで、どうやら小宮の方に軍配があがったらしい。他にも蝉はいたようだが、日暮しは7月の初め頃、エゾハルゼミは五月〜七月で句にそぐわないという事だったようだ。

万葉集に

ひぐらしの鳴きぬるときは女郎花 咲きたる野辺を行きつつ見るべし」

「今よりは秋づきぬらしあしひきの 山松陰にひぐらし鳴きぬ」

「萩の花咲きたる野辺にひぐらしの なくなるなへに秋の風吹く」

これに詠まれている日暮しはどうも今の、かなかなかなと鳴く日暮し一種ではなく、萩や女郎花などの季節に鳴くのは、和名「赤せみ」のようで、阿波徳島では、今も赤せみの古名「日くらし」と伝えている。当時、日が暮れてなを鳴くせみ全般を指して、ひぐらし(比久良之)と言っていたらしいと、どこかで読んだ。

そこで一句

日暮しは遠きに聞きて想うもの??

      参考書:『セミの自然史』(中尾舜一 中公新書)
          『万葉集』『和名類聚』『万葉集名物考』










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