…まあ実際は、十日早朝近くに、キッチンのテーブルでかいている日記なのですが。 写真は今夕、出先のスタバで撮ったもの。 届きたての、夕方にとりたての、記念写真。
(念のため。子どもの皆さんへ。このシェーラは「見本」といって、作家さんたちに先に届く分の本です。九月九日現在、まだ本屋さんにはこの本はありません。十八日か十九日前後くらいには、大きな本屋さんだとあるかな、って感じです。まだ本屋さんにさがしにいったりはしないでね。ないからさがせないし、がっかりしちゃうよ〜)。
九月九日。今日、新シェーラひめのぼうけん10「天と地の物語」の見本が無事に届きました。ええと、佐竹画伯の絵だけで泣けるところが何カ所かあります。とくに物語最後に登場する、最後の最後の主要登場人物にして、お話の中心になるひとがらみの絵は、みんなすごいです。 それと、お話の一番古くからずっといるあのおひめさま(笑)の絵はやはりすばらしいですねえ。
でも、絵だけ先に見ちゃうとネタバレになるので、よいことよいおとなの皆さんは、先の方の絵を見ないようにして、よむことをおすすめします。
☆今日は、午前中、家族の用事で一度外出して家に帰り、宅配便やさんから本を受け取って、その後また夕方から仕事しに外に出たのですが、早く外に出ないといけないと思いつつ、手にした自著を読み返しちゃって、家を出るのが遅くなってしまいました。 十年目にして完結したことにも感動しますし、自分で読み返してもおもしろいところもあるし(笑)、ミスを発見して、うなだれたりもするし(涙)。
この物語、特に後半の新シェーラをどうしてかいたのか、ということは、いずれ時間が作れれば、かいてサイトにアップできれば、と思うのですが…
とりあえず、一言ふたことメモがわりにかいておくとすると、昔からの白黒思考への嫌悪とか、ステレオタイプな偏見への憎悪とか、そのあたりから発生しているのかなあと。嫌悪とか憎悪とか、きつめの言葉ですが、怨念と正義感に彩られたこの感情は、カテゴリわけすると、立派な強い憎しみだと思います。
私は、敵と味方を簡単にわける思考が嫌いです。競い合うことを是とし、勝ち負けを決めようとする考え方も趣味に合わないし、人を集団で色分けしたり、偏見を持ってみたりする考え方がいや。
そうではなく… 個としての生き方を認め合い、個としての人間である、ほかの共同体や異文化に属する誰かについて、自分なりの目で評価するような、そんな柔軟で複雑な目線をもち、生きる人間であれたらと思うし、憧れます。
かたまりとしてひとをみる思考は、思考停止でしかなく、その考え方は、人類の知性を否定する考え方で…そしてなによりも、その思考は、簡単に「敵」を作り出しうる、妄想の素地ともなっていってしまう。 相手もまた人間であるという現実を忘れることにつながってしまう。
新シェーラひめのぼうけんとは、「敵がいない物語」です。 最後の旅を終わらせて振り返ると、悪意に満ちたひとは実は誰もいない。ただみんなが少しずつ、道を誤っただけ。だけど、大きな悲劇は起きたし、それは現実の私たちが生きている世界でも起きてきたことなんだよ、と。 そんなことを私はかきたかったのです。たぶん。
私は過去に被爆した都市に住んでいて、私の住む街の路上には、数十年前の夏には黒く焦げて死んだ子どもが横たわっていた。日本人だから、その夏にこの街にいたから殺された子どもです。 世界中のあの街、この村には、同じように、「その街の子どもだったから」殺された子どもたちの死体の影が、焼き付いているのです。
見えない影を見、聞こえない声に、私は耳を澄ませていたいと思います。
実のところ、私が作家としてとても影響を受けたのは、若い日に読んだ「苦海浄土」なのだろうなあ、などと、久しぶりで思っているいまだったりするのでした。無数の声たちの私は代弁者であり、語り部なのだろうと思います。
☆海、といえば、いま部屋の中には、かすかに潮の香りのようなものがたゆたっています。 先ほど、長く生きて死んだ金魚を、ベランダのソテツの鉢に埋葬したからです。なんだかいつまでも、すくいあげた金魚のにおいが残っているようで。
何年うちにいたんだか、それすら定かではないほど、長生きした金魚でした。 大きくて立派で、いつも六十センチ水槽の中を、ひらひら泳いでいて、癒されましたね。 ひとにもなれていて、手でさわっても逃げもしなかった。ガラス越しに見ると、むこうもよってきてこちらをみるので、水槽の手入れをするとき、じゃまになって仕方がなかったっけ。ひれと巨体が視界いっぱいに広がるものだから、水槽の中がみえなくて。
ここ数日、涼しくなったかな、と思っていたら、食欲が落ちて、じゃあ絶食で様子見を、と思った二日後に、急に死んでいました。 正直、持ち直すと思っていたので、まだなんだか実感がわかなくて。数時間おいといても、いきかえらなかったので、埋葬しましたが、まだ実感が。 水からあげたら、ほんと大きくて、重たかったです。胴体の大きさが、大きいサイズのイワシくらいな感じ。よく育ったなあ。
金魚も飼って長いので、薬もひととおりもっているし、薬浴とかの治療も何回も経験済みで、だから今回も死なせる予定じゃなかったのになあ。
六十センチ水槽は、水草とエビとイシマキガイの水槽になってしまいました。ふりかえるたび、主のいない水槽は空虚な感じがします。 …まあいいタイミングと考えて、当分は、水草でもきれいに育ててみようかと思います。 そしていつか、縁日で金魚すくいにでくわしたら… いろんなひとびとの手に追われて傷ついた、小さな金魚たちを保護して、かくまって、育ててやりましょうかね。
えーん。かなしくないぞ。なくもんか。 飼い方に落ち度はなかった。水質の変化もなかったはず。あれは寿命だ。
…金魚って、虹の橋であえるのかなあ? 草原を泳いできてくれるのだろうか? うーん。謎だ。
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