私の亡父は自衛官だったので、数ヶ月から一年くらいで、全国各地を転々と引っ越していました。私も父と一緒に、引っ越しの繰り返しの日々を送りました。 そうやって、成長しました。小学校は六つの学校に通い、中学校は二つの学校に通いました。
私が、一年生として、小学校に入学したのは、千葉県でのことでした。 風早南部小学校という学校です。 担任はサカイ先生という名前(だったと思います)の、優しい中年女性の先生でいらっしゃいました。優しいだけではなく、高学年の生徒が無茶をすると、別人のような激しさでまっすぐに叱ることのおできになる先生でした。
私はこのサカイ先生に、それはかわいがっていただきながら、一年生の毎日を送りました。 いやかわいがっていただいたのは、わたしだけではなかったのですが、クラスの子どもたちの中の一人として、先生の愛情を毎日感じることの出来る日々を送りました。
子どもの頃の私は、客観的にいって、利発で頭の回転が速い代わりに、神経質で、団体行動を嫌う子どもでした。そういう私のよいところを引き出し、マイナスに見られがちな点を、抱きしめて見守ってくださっていました。
あの学校では、チャイムの代わりに、「白鳥の湖」のオルゴールが鳴っていました。 私は、風早南部小学校が大好きでした。
けれど、二年生からは、九州のある県に転校することとなりました。 泣いていやがりましたが、自衛官の子ども(それも小学一年生)に、転校を拒否することはできません。
その県のその学校は、風早南部小学校とは全然校風が違いました。 どちらかというと都会的でおとなしやかだった前の学校(風早南部小学校は、新しい学校だったか、大規模校だったような記憶がありますが、幼い頃の記憶なので定かではありません)とは違い、転校先の学校は、学校全体が、ワイルドで騒がしくて、やたらに元気でした。 なにがすごいって、担任の女性教師です。 生徒を指して、「おまえらは」とかいうような方でありました…。 そして彼女は、恐ろしい暴力教師でもありました。
でまあ、私はお利口さんな子どもであったのですが、学校のあまりの違いについてゆけませんでした。そしてまた、周りの子どもたちは、方言全開です。 関東方言で話しかけると、「どうしてそんなテレビみたいな話し方するの?」と、笑われます。暗に方言を使うことを強制されます。 同じ転校生でも、とけ込むのが早い子は、大体方言を早く覚えてしまうものです。しかし私は、何しろデフォルトが、団体行動が大嫌いな子ども。 方言は嫌いではないですが、使うことを強制されると、これほど嫌なものもないです。私は死んでもここの言葉は覚えるものかと思いました。
そんなこんなで、学校嫌いになるうちに、成績も下がってゆきます。 動作も発言も必然的に、前向きではなくなります。 すると、前述のワイルドな女性教師は、私のことを、「のろま」と呼んでくださいました。 その「のろま」発言が、どれほど頻度が激しいものであったかというと、その後、私が神奈川県に転校した後、元クラスメートからきたお手紙に、「いつも先生に「のろま」といわれていた村山さんうんぬん」という文章が(悪気はない発言なんですが)あったということからもわかると思います。 あまつさえ、先生は、私の行動の速度が気に入らないと、思い切り突き飛ばしてくださいました。
私はいつも千葉県に帰りたかった。 風早南部小学校に、空を飛んで帰ってゆけたらと夢想していました。 同時に、あんなにサカイ先生にかわいがられていた自分が、ここでは「のろま」といわれていることを先生がお聞きになったら、どんなに悲しむだろうと思ったのを覚えています。
さて、苦痛な一年間を過ごした後、私はまた父に連れられて、関東圏、神奈川県の相模原市に転校することとなりました。大和台小学校での三年生の時の担任は若い男の先生で、これがまたよい方でしたから、私の心の傷は癒えたのですが、それはまた別のお話です。 問題の女性教師の、極め付きの問題発言。これを書かずにはいられましょうか(笑)。ネタとしておもしろすぎるから。
母から聞いた話です。 転校の挨拶にいったとき、くだんの女教師は、こういったそうです。 (関東方言に翻訳ですみません。実際は方言だったはずです)。 「このごろやっとわかったんですが、お嬢さんは、本当は賢いお子さんだったんですね。私は、知恵遅れの子だと思っていました。こんなに利口な子だと知っていたら、もっと話しておきたかったです」
…上記の教師の発言の問題点をすべてあげなさい、って感じですか(笑)。
その女教師のことは、今はもうどうでもいいですが(ていうか、本人、覚えてないと思うし。私のことなんか)、私、大人になった今、天使のような教職者でいらっしゃったサカイ先生とペアで、悪い教師の例として、非常によく覚えています。 覚えてますよ(笑)。「本当は賢いお子さん」だったからね(苦笑)。
大人になった今も、子どもの頃の小さく無力だった(でも誇り高かった)私は生きています。低学年の私を抱えて、大きくなったようなものです。 無力だった私、傷ついていた私を覚えているからこそ、両極端な位置にたつふたりの教師から向けられた、それぞれのまなざしを覚えているからこそ、私は、今、児童文学を書いているのかもしれません。
サカイ先生。あなたの愛情は忘れません。 もしできることなら、あなたには、私が今も先生を覚えているということを、どんなにあなたの学校にもどりたかったかということを伝えたい。 先生、国語とおしゃべりが得意だった私は、子どもの本の作家になりました。 たとえ、あなたが一人の生徒にすぎない私のことをおぼえていらっしゃらなかったとしても、あなたの愛情とまなざしに見守られた一年生の一人は、今もあなたのことを覚えているんです。 ありがとうございました、サカイ先生。
その後、各地を転々とした私は、小学校六年生の三学期から、また千葉にもどりました。市川市立二俣小学校に転入し、第六中学校で中学生になりました。 市川での暮らしは、とても楽しかったです。 中学三年で、神奈川県綾瀬市に引っ越すまでのおよそ二年間の日々は、輝いて、一生懸命で、かっこわるかったけど、ひたむきな日々でした。 同じ地に二年間も「長く」いたことはなかったこともあって、この市川での暮らしで、いよいよ私の心の中の故郷は、千葉になったのでした。
そして、長い長い年月を過ぎ。 私は自分の力で、故郷に帰ります。
小さな頃の私の手を引いて、懐かしい地をたずね、新しく変わった情景に目を見張りましょう。 自分の足で、帰りたかった場所の土を踏みしめましょう。
本当に長い時間がかかってしまったけれど、帰るときがきたんだね…。
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