| 2002年04月17日(水) |
ふぁいと・おあ・ふらいと |
私は、自分が「児童文学作家」だということを、いつも意識して生きていきたいと思っています。ひとりでいるときもです。
児童文学作家は、子どもから憧れられる存在です。 大人の、純粋な読者さんたちからも、美しいイメージで想像される職業です。
私は、そういう人たちのイメージを壊したくないと思っています。 とくに子どもにとって、尊敬する誰かに対して持っている夢や憧れが崩れ去る瞬間というものが、どれほど痛いものか想像がつくから(いろいろと覚えてもいるし)、その、幻のようなものを、大切にしてあげたいと思うのです。
だから私は、絶対に、「悪いこと」はしないようにしようと思っています。 小さなことでも、法律には背きたくないし、ずるいこともしたくない。 金銭トラブルも背負い込みたくない。 恋愛に関しても、不倫だけは絶対にしない。<そういう相手を好きにもならないけど。 人を職業や生まれや見目形で差別するようなことはしない。 いつでもフェアな私でありたい。 お日様の下をまっすぐに歩けるような、そういう自分でいたいのです。
でも、どこまで、「美しい姿」でいられるかというと、限界もありまして。 たとえば、私は喧嘩屋で、場合によっては、人を傷つけることも何とも思わない人間であります。 嫌いな人は嫌いだと、いってしまい、つきはなしてしまえる人間であります。 そんなんで、私から嫌われた人たちは、私のことを悪人と思い、蛇蝎のように忌み嫌うことでしょう。 そういう人にとっては、私は「おきれいな児童文学作家」じゃないわなあ。
十代の頃…うーん、二十代終わりくらいまでかな? 聖職者のような人間になりたかった時代があります。 自分を慕ってくる人はすべて受け入れ、どんなに自分が傷つけられようと馬鹿にされようと、微笑んで許し、ひたすらに周りの人たちを愛し抜こうと…。
今は、全然そんなことは考えません。 縁がない人とはつきあえなくていいと思ってる。 馬鹿にされたら、蹴倒してあげましょう。 どうしてそんなふうに変わったのかなあ、と自分でも不思議です。 なんかきっかけってあったのかなあ? 覚えてない。
でもたぶん、自分に無理をしないで生きていこうと、ある日、悟って方向転換したのだと思います。きっと、作家になった頃からね。
私は人間が大好きだし、知っている人も知らない人たちも、みんな幸せでいてほしいと思っています。 でも、自分が人とつきあうこと、ってのは、実はものすごく疲れちゃうのです。 人から好かれるのも、疲れてしまうし、好きだといわれても尊敬されても、疲れてしまうし、ええ、もちろん嫌だからじゃなくて、ただ、疲労してしまう。 人の想いを受け止められる余裕がないのかもしれません。
人とつきあうとき、リアルでもバーチャルでも、私はかなり無理してつきあっています。 もちろん楽しいから、そうしてるんだけど、金属疲労みたいなものがいつも心の中にたまっていっているのです。石に少しずつひびが入っていっている感じ、ともいえます。 でもそれでも、私は人間が好きだし、私を好きな人々がいるかぎり、みんなと一緒にいるべきだと思うから、ぎりぎり心が傷付かない程度まで、みんなに近寄って、にこにこしてるのです。
この人は苦手だなあ、とか、この人は嫌いかも、とか思っても、相手が愛読者さんだったりすると、でもって、こっちを慕ってくれてたりすると、「がまんするかなあ」とか、思うこともあります。許容して、迎え入れてあげようと。少々のことなら、目をつぶっていてあげようと。 やはりそこは、かつて聖職者のような人に憧れていた二十代、というのがありますので…。 すると、その苦手な相手は、これでいいものだと思うのか、どんどん増長してゆく。行動や発言が、エスカレートしてゆく。
そしてある日。 我慢が、限界まで来ると、私の心の中で、何かが、折れたり砕けたりしてしまうのです。もう、ある日、突然に。 すると、私は、人間関係から、逃げるか戦うか、どっちかしか選択肢がなくなってしまうのです。
野生動物は、未知のものとあったとき、逃げるか戦うか、一瞬にして判断するといいます。その判断が生死を分けるから、感覚がとぎすまされてゆく。 私もときどき野生動物レベルまで、落ちてしまうわけです。 まあ、土台が野良猫だから、しょうがないという話もありますが。 で、野良猫の舌にはとげが生えているのです。怒ると言葉は相手をさします。 手には爪が生えてもいます。野良猫だから切っていません。鋭いです。
そんなわけで。 たまに私は、児童文学作家と野良猫のあいだで、実像と虚像が揺らめいているのです。この野良猫作家は、決して犯罪は犯しませんが、でも、限界が来ると、いくらでも人を傷つけることができる極悪なイキモノでもあるのでした。
…困ったものです。
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