日々の泡・あるいは魚の寝言

2002年04月09日(火) 神さまもどきの怒り

たまーに、というか、いつもいつも誤解されるんだけど、私は優しい人間じゃないです。そりゃまあ、きれいさっぱりと、そうじゃない。

そりゃ、困っている人がいれば手助けするし、弱っている人は励ますし、迷っている人は、導けるものなら、導きます。
でも、それは、自分が「痛い」から、ほっとけなくなるだけのこと。
私は、もうどうしようもなく、見ているものと同調してしまう人なのです。小さい子が、わけもわからず、周りの大人が悲しむのも見て、一緒に泣いちゃうのと同じ。本能的なものだから。脊椎反射だから。
そうして、「人として、弱者の味方でありたい」といつも思っているから、理性の部分でも、困っている人には手助けしたいと思う。

#んで、これは、こないだ森江さんに指摘されたけど、「強者には優しくない」。
だって、自分で生きていける人は、ほっといてもいいでしょう。
それと、強者に優しくするってことは、イコール強者におもねるってことだ。わたしはそんなの、死んでもしたくない。

もひとつ。友人知人が相手だと、優しくする優先順位が下がる。
うーん。これはなんていうかな。私のお友達は強い人が多いから、古い知り合いほど、窮状にあるのがわかっていても、ほっといたりしてしまう…。
私がいろいろいわなくても、大丈夫かな、とか思うのだ。
つまり、あまりよく知らない人ほど、気になって手をさしのべてしまう。
通りすがりの人に、一番優しいかもしれないです。

本当に優しい人は、母のような愛情で、相手を包む人だと思うのです。
相手を全肯定する愛。マリアさまのような、マザーテレサのような愛。
心の深いところから、あふれでてくる愛。
私のお友達数人や、そのお母様には、そういう人がいて、私はその人たちのことを思うとき、はあ、と、ため息をつくのです。
いつも愛されてばかりでごめんなさい。私にはみなさんに、みなさんがくださるようなかたちの、愛を返せません。

私の優しさは、愛ではなく、単なる同調だったり、理性的な親切だったり、時として憐憫だったりするので、あまりほめられたものじゃないのです。
だから、相手が弱い立場の人だろうと、「こいつは認められない」「間違っている」と、一度思うと、一転して、排除する側にまわります。冷たいもんです。

十代の頃、「あなたの怒りは、神様の怒りのようで怖い」と、いわれたことがあります。
そのときは、何それ?と思ったけど、今ならわかる。
私は人と深く関わらないから、頭に来たとき、相手と対等に喧嘩するんじゃなく、真上から見下ろして叱りつける、天誅になってしまうのです。
で、人間関係に未練がないから、冷静に、いいたいことをいいきってしまう。

基本的に、マジギレするまでに、ながーい、ながいあいだ、がまんしていたりするので、怒りのエネルギーはふつふつとたまっています。その間は、相手におだやかに接していることが多いので、相手は気づかないことが多いです。
「ここまで」と思うと、雷になって、地上に降りそそぎます。

傷付いた心に同調する思いも、相手を否定したあとではもう、回路が働きません。
私は、人を自分につなぎ止めたいという欲望を持っていないので、嫌いになったら、それきりさようならです。
よほど、誠意でも見せてくれないと、許しません。

だから。
だから、わたしを怒らせないでね☆ みなさん。


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