日々の泡・あるいは魚の寝言

2002年02月19日(火) 青い文字の手紙

さっき、福音館のTさんからのメールで、ある編集者の方が亡くなったと知りました。
元福音館の、八鍬典子さんです。昨日、亡くなったそうです。

八鍬さんは、私がまだ19才だったとき、原稿を読んでくれた人でした。
当然、デビュー前のこと。そのときの私は、そう、生まれて初めて、出版社に原稿の持ち込みをしたのでした。
当時、福音館は、土曜日文庫という名前の長編童話のシリーズものを刊行していて、私はそこに入っているような本を書きたくて、無謀にもはじめて書いた長編(私にとっては)を、紹介もないのに福音館に送りつけたのでした。
忘れもしない、180枚のハイファンタジーでした。
今の私なら、それくらいの枚数を、十日から二週間くらいで(場合によってはもっと早くでも)書いてしまうでしょう。でも、19才の私は、一年くらいかけて、せっせと180枚書いたのです。
180枚の原稿は、すぐに読んでもらえて、感想を書いた手紙といっしょに、送り返されてきました。
原稿を読んでくださった人、手紙を書いてくださった人が、八鍬さんでした。

その手紙は、今も手元にあります。
読み返さなくても、内容は覚えています。何度も何度も読んでいるからです。
しっかり構想すること、客観的に書くこと、細部まで想像をめぐらせること…。
ファンタジーを書くのなら、そういうことを注意するようにと、万年筆の青色の文字で、丁寧に書いてくださっていました。
それはどれも、とても大切なことでした。当たり前のことではあるのですが、自分宛の手紙に書かれた言葉は、重みが違いました。
そして、終わりの方に、「ファンタジーの本を出版するのなら、350から400枚の枚数は必要です」とも書いてありました。
180枚をやっと一年がかりで書き上げた当時の私に、どうしてその枚数が書けるでしょう。私はそれから、すぐに次の持ち込みをするのはあきらめて、勉強のために、いろんなコンテストに作品をだすようになったのでした。
でも私は、「いつかきっと、長いファンタジーが書けるようになって、また八鍬さんに原稿を読んでもらって、福音館から本を出すんだ」と心に誓ったのでした。

さて。このあたりの話は、いろんな場所で話しているので、きいたことがある方もいるでしょうが、結局、最初の本がでて、作家になるまでには、それから十年かかったのでした。
デビューはあかね書房です。で、そのころには、理論社にも担当の編集者さんがいました。その後も、いろんな出版社から、私の本はでましたが、福音館から単行本がでたことはありません。
福音館には、19の時の、たった一回しか原稿を持ち込むことがありませんでした。私がやっと長い原稿を書くことができるようになったときには、八鍬さんは、編集部を離れ、販売部に配置転換になっていたからです。
私は、「原稿を読んでくれて、手紙をくれた八鍬さん」にまた作品を読んでもらうのが目標だったので、八鍬さんがいなくなったあとの福音館の編集部に、原稿を持ち込む理由がなくなってしまったのでした。
今の私なら、もう、350でも400でも、軽く書けるのに。
しっかりとした構成の長編ファンタジーも、たぶん書けているのに。

八鍬さんは、編集者として、優秀な方だったようです。
理論社のYさんに、何かのきっかけで、八鍬さんのことを話したとき、
「最初に原稿を読んでもらったのが、八鍬さんだったなんて、幸運でしたね」
なんて、いわれたことがありましたから。
八鍬さんが、フリーの編集者として、本を作ってらしたときいたこともあります。
他社の編集者や本好きの方々といっしょに、子どもの本を研究するための勉強会もなさっていたようです。

私は、デビューしたあと、八鍬さんにお礼の手紙を書きました。
新刊も、お送りしていました。
八鍬さんは、本当に喜んでくださって、いつも感想をくださっていました。
「百年目の秘密」が、お好きだったようです。

福音館とは、本を出版してもらうご縁はいまだありませんが、雑誌「おおきなポケット」で、短期連載を、その後することがありました。
そのとき、担当のTさんといっしょに、八鍬さんはいつも私の原稿を楽しみにしてくださっていたそうです。また、私の本について、Tさんとよく話したりもしていらっしゃったそうです。

八鍬さんとは、毎年、年賀状の交換もしていました。
でも、今年にかぎって、お互いに年賀状のやりとりをしませんでした。
私は今年、はじめて年賀状を誰にも出せないくらい時間と気力のない状態に追い込まれてしまって、それでたくさんの人に不義理をしたのですが、八鍬さんからこないというのは、不思議なことでした。

そういえば、この年末にでた本を、八鍬さんにおおくりするのを忘れていました。
ポプラ社の「ささやかな魔法の物語」。
あの本を、八鍬さんに読んでいただきたかったなあ…。
なぜ、今回にかぎって、著者代送のリストにいれるのを忘れていたのでしょう。

どうして亡くなったのかは、わかりません。
たぶんまだ、四十代の終わりか五十代くらいのはず。
亡くなるような年令ではなかったと思うのですが…。

八鍬典子さんの冥福を心からお祈り申し上げます。
「よい作品を書かれますように、お励み下さい」と書いてくださった、あの手紙の青い字は、ずうっとこれからも忘れません。

この先、どんなにたくさんの名編集者と出会い、お仕事をするとしても、私の原稿をはじめて読んでくださったのは、八鍬典子さんだったということは、忘れません。ありがとうございました。

<追記>
1.長編ファンタジーが出版されるにあたって(児童書の場合の話ですが)、300とか450などという枚数が要求されたのは、今は昔の話です。現在ではむしろ、180から250くらいまでの枚数の方が、出版されやすいと思います。
(この枚数は、四百字詰め原稿用紙換算です)。

2.私は、誰の紹介もなしに、かつて福音館に原稿を持ち込んだわけですが、これは実は、勝つ可能性のほとんどない賭けのようなものです。まともな出版社なら、編集者は常に忙しく、得体の知れない新人(の卵)の原稿など、読んでいるひまはないのです。そう、新人の卵の持ち込み原稿は、ほったらかしにされてしまう可能性が大きいのです。原稿のレベルを判定してもらえる以前の問題になってしまうのでした。「持ち込み原稿も読むことにする」と決めている出版社の場合でも、編集者に時間ができるまでは、そうそう読んでもらえるものではありません。数ヶ月から数年も、原稿が埃をかぶったままになることもあり得ます。
私があんなに早く原稿を読んで指導してもらえたのは、運が良かったか、八鍬さんが熱心で、良心的な方だったということなのでしょう。

新人作家になりたい人は、出版社主催のコンクールに投稿するか、作家先生の紹介で、出版社に持ち込んでもらいましょう。
で、「先生の紹介で持ち込み」というのも、いきなり自分がつきあいもない作家に原稿を送りつけて、「これを出版社に持ち込んでください」といったって、まず百パーセント持ち込んでもらえませんので、念のため。
すなわち、「作家に頼んで原稿を持ち込み」してもらえる人というのは、たまたま作家に知り合いがいて、その人があなたの才能を見込んでくれている場合だけ、ということになります。

したがって、普通の作家の卵は、新人賞デビューをねらいましょうね。
私もデビューのきっかけは、新人賞です。


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