日々の泡・あるいは魚の寝言

2002年02月14日(木) 2月14日

私は、人の幸せを、「よかったね」と、喜ぶのが得意です。
知らない人の話でも、幸せな人の話題をきくのは好き。そういう話だけを、ずうっときいていられたら、どんなにいいだろうと思います。
一方で、ねたみそねみ関係の心情は、よくわかりません。
こういう性格は、自分でとっても楽なので、嬉しいです。

でもこれって、自分と周りの人たちを、同じ地平線の上の存在としてみていないというだけのことかもしれないと思ったりもします。
なんていうか、子どもの頃から、私と周りの人のあいだには、見えない壁みたいなものがあるというか、どこかでまじわれないと思いこんでいるというか…。私ひとり、違う世界を生きているというか。

私が人の幸せな話を聞くときって、なんとなく、こんな感じのような気もします。
…私はよその家の外にたっている。家の部屋の中には、友だちがいて、私に嬉しい話をしてくれる。私は良かったね、といって、窓越しに手を取り合って喜ぶんだけど、そのうち、「じゃあまた」といって、道へ帰っていく。
「ああ、いい話を聞いたなあ」とか、ハッピーになりながら。

私は相手の家の中に入らないし(呼ばれても)、すぐに立ち去ってしまうし(近所にはとどまるんだけど)、どこかにある私の家に人を招いて話を聞くことはない。
ないと思う…たぶん。

他人の幸せは、ガラス窓の向こうの人たちの幸せで、「絶対に私のものにはならない」幸せだから、だから私は最初からうらやましいとも思わないし、家の中に入ろうとしないのかもしれない、という気がするのです。
だから、神様が見守るような気持ちで、幸せを祈れるのかも、と。

で、私はそういう自分のスタンスが嫌いじゃなかったりもする。
情念の世界で、人に執着したり、人を恨んだりして、どろどろになるのってあまり好みじゃないし、そもそも自分が、感情の振幅が激しい状態になるのは好きじゃない。なるべくでいいから、自分を客観視できる程度に冷静でいたいので。

これは、うちの母親が、どっちかというと「他者の幸福をうらやましがる人」(といっても、普通の人のレベルかとも思う)で、なおかつ、感情の起伏が激しい人、だったから、というのもあると思います。

うちの母親は、機嫌がいいときと不機嫌なときの差が激しい人で、なんの前触れもなく、何もいわないうちに、気分が入れ替わっていたりするから(急に子どもに口を利かなくなったり、子どもが幸せそうに笑ってると、怒り出したりする)、子どもである私は大変でした。いつも怯えていたものです。捨てられそうで。
(まあ、母にはそれ以外には美点もあるんですけどね)。
いまだに、私は、いわゆる「感情的な」タイプの人とのつきあいは苦手です。その人への好悪の感情は別にして。
どう接していいのかわからなくなって、悲しくて、途方に暮れてしまう。
なんていうのかな、「いつかは捨てられる」と、無意識のうちに思うからかもしれない。気分が変わったときの母親は、ほんとに怖ろしい人に変身していたので。あの恐怖を思い出す。

たまには私だって、ガラス越しの、部屋の中の世界に憧れることもある。
でもやっぱり、人と密接に関わり合うことは怖ろしい。
誰かを好きになるのは幸せなことだけれど、それがいきすぎてその人に執着してしまうことで、自分が変化するのも怖い。おだやかに生きていけなくなりそうだから。

通りから、自分が好きな人をガラス越しに見て、ずっとずっと幸せを祈っていられたらいいのにな、と、いつも思っています。いや実際、私は好きな人がそこに生きているというだけで、幸せでいられるから。
人と深く、関わり合うことは怖い。
捨てられるのがいやだから。

でもやっぱり、ガラスの向こうの世界には、憧れてしまうこともある。
だって、道は寒い。部屋の中は暖かそうだし、みんな幸せそうだから。
少しずつ、少しずつ、近づいちゃおうかな? あの人、呼んでるし…。

…で、たまに、ガラスの中の世界に接近してみて、やっぱりがらじゃなくて失敗して、ないちゃったりもするのでした。
ついでに部屋の中の人をひっかいて怪我させたりして。<猫だったらしい
あうあう(涙)。
人恋しい気持ちだけ胸に抱いて、北風吹きすぎる道にたたずむしかない自分が悲しい。
ほんとは私だって、寂しいんだよう。かっこわるいからいわないだけで。
ひとりで道にいるのは、そんなに楽しくもないんだよう。

いいなあ、ガラスの向こうの人たちは。

…ええ、わかってるんですよ、中に入らないのは自分の意志だってこともね。


 < 過去  INDEX  未来 >


chayka [HOMEPAGE]