今日の日記の内容は、ちょっとオカルトなんで、そのつもりで読んでください(笑)。オカルト信じない人は、ごめんなさいです。 オカルトというか、占いの話なんですが。
私は、児童文学作家ですが、ちょっとだけ、アマチュア占い師でもあります。 何ができるって、姓名判断ができます。十代の頃からやってる。私が付けた名前を持てば、ばっちり運が開けます…とかいって。 あとは、人に進むべき道を教えることができるなあ。行動するべき時期を教えることもできる。これは占いじゃなく、勘が働きます。これでいろんな人に道を開いてきました。<思いあたる人は、多数いるはず。今日もまたひとり(笑)。
だけど、自分の未来を読むことはできない。自分を幸福にはできないなあ。 占いも勘も、今ひとつ、自分には生かせない。
姓名判断に基づいて、筆名を考えるとき、できれば、他人に考えてもらった方がいいという話があります。 なぜか。 自分でつけると、その人本人がもともと持っている運からのがれられる名前が付けられない、といわれているからです。 私は自分で、筆名をつけました。まあ、本名も、そこそこいい画数を持つ名前ではあったんだけど、自分の運命は自分で切り開いてみたかったし、新しい人生をつくるような気持ちにもなれそうだったし。大体、姓名判断自分でできたしなあ。 そいでまあ、つけた名前が、今の名前です。デビュー前に付けた名前ですが、この名前に切り替えてからは、あっというまにプロになったような。 そう、私が、姓名判断を好きなのは、自分で運命を変えることができる占いだから、なのです。四柱推命あたりとは、そこが違う。いうなれば、お札や護符のような占いなのですね、姓名判断は。
だけどだけど。この名前は、めいっぱい、お仕事仕様の名前なのです。 運がついてくるかわりに、私生活を犠牲にした孤独な暗示がある名前。それでいいと思ってつけたんだけどねえ…。 たしかに、お仕事には恵まれています。でも、人間関係があれだなーとか。 ええええ、どうせ、総格25ですよ。内格9ですよ。自分でつけたから、誰にも文句が言えないやい、ちくしょう〜(涙)。 ついでにいうと、この「人間関係を犠牲にしたお仕事仕様の名前」というのは、本名もそうでして、ただ、本名は凶数が勝っていたので、そのへん調節したのでした。そう。それくらいなら、占いの知識を持っている私にはできた。 だけどたぶん…私じゃない他の占い師さんがつけたら、もっと完璧にいい名前、バランスのとれた名前にしたんだろうなあ。総画31とかにしたんだろうなあ。
今日、なんとなく気晴らしに、街の占い師さんに運勢を見てもらいました。 私の名前の画数を見て、「これは……すごくいい名前ですね」 あたりまえだい。 「お仕事の運がすごくいいですね。努力した分の二倍三倍帰ってくることでしょう」そういう名前だからね。 「今年は星の年回りからしても、すごくいい年になりそうですよ」ありがとう。 「でも、人間関係のトラブルが多い暗示ですね」うう…。 「慢心に気をつけてください」はい…。
たまには、占い師さんにみてもらうのもいいもんです。 慢心には気をつけよう。 そうそう。一ついいことをききました。 「どんなに強い運を持っていても、行動しなければ、その運を生かせません」
占いは、あたるも八卦、あたらないも八卦。 信じるのも信じないのも、その人次第です。 昔の日本の貴族のように、「今日は何とかの日だから、あっち方面には外出できない」とか、「今日は何とかの日だから、家を改築できない」とか、そんなふうに自分を縛ることになるのなら、占いは害でしかありませんが、ま、姓名判断みたく、お札みたいなものだったら、悪いことはないんじゃないかな、と思います。 自己暗示を働かせるためのアイテムとしてとらえるやり方もあるからね。
なお、私は姓名判断は、アマチュアだし、頼まれてもふだんはやりません。気が向いたときに、気が向いた人のをみるだけです。だから、占いの依頼はおひきうけしておりませぬ。 そーですねえ。いつか、小説が書けなくなったら、姓名判断で食べていこうかな…。ははは。とかいって。いやあ、今日も占い師さんとの対話が楽しかった(笑)。計算間違いを指摘したりして。<おい
なんだか怪しい児童文学作家な私なのでありますが、そういえば、私の死んだ伯父は、アマチュア奇術師で、故引田天功の弟子だか孫弟子だかにあたる人物だったのです。死んだ父親は、手相占いの浅野八郎と知り合いだった。そーゆー血筋なんですかねえ。
「行動しなければ、自分の運は生かせません」 かあ…。 深い言葉だなあ。 でも、私は何を「行動」すればいいんだろう? 私自身の進むべき道は、いつだって、私本人には見えない。
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