西方見聞録...マルコ

 

 

エミリー・カーメ 遠い太鼓:農場の向こう側 - 2008年02月25日(月)

 エミリー・カーメ・ウングワレーの展覧会にいった。
 
 エミリー・カーメ・ウングワレーは8年間だけキャンバスに絵を描いた。たぶんその前も80年間近く砂の上や人の体に指で描き続けていたのだけど、それは「こちら側」の記録に残らなかった。彼女の死までの8年間、エミリー・カーメは3−4000点以上の作品が残した。砂の上に描くように彼女は毎日祈りの言葉を唱えながらキャンバスに絵を描き続けた。

 彼女がキャンバスに向かうきっかけは「国策」でアボリジニのプリミティブアートを「こちら側」の画家の作品にするために約100名のアボリジニが絵筆を与えられてキャンバスに向かわされた。そのプロジェクトでエミリー・カーメの天才は発見された。あとの99人はどうしているのか。

 彼女はヤムイモの種=「カーメ」の名を持ち、それを成長させる守護者の位置を故郷で持っていた。きっとヤムイモの種からの芽吹きや成長のイメージががんがん受信されてたぶん表現せずにはおれない人だったんでないか。砂の上でもキャンバスの上でも何でもいいから。そういう巫女的な感じとやっぱり80超えたおばあさんとは思われない表現者としてのものすごいエネルギーがほかの99名とエミリーを分けたのだろうか、とか思った。

 伸び行くヤムイモの茎、吹きこぼれるヤムイモの種のイメージはどこから飛んできたのだろう。

 この直前に某植民地文学者と都市(中心)−と農場(辺境)の話をしていた。農場で得た生の経験は都市(中心)の脆弱さを自覚させるが農場こそが辺境のネイティブを征服する基地でもあるという両義性の悲しさを感じずにはいられない、とかなんとかそういう話をしていた。

 農場=「都市への食料やらなんやらの供給基地」であるのならその農場の向こう側には都市に隷属しないそれ自体が中心となるもうひとつの文化の中心が小さくはあっても無数に存在していた。エミリーが生きた「ユートピア」と白人が名づけた部族が暮らす土地はそういう農場の向こう側のもうひとつの世界のたくさんある「中心」のひとつだったのではないか。

 都市の消費の隆盛は農場の巨大化を必然的に促す。農場はその向こう側の世界の人々を労働力として飲み込み、さらに向こう側のもうひとつの世界を農場を構成する一片として飲み込みながら巨大化する。

 エミリー・カーメは農場の向こうのもうひとつの中心からイメージを受け取ってそれを類まれな表現力で表現する人だった。彼女の絵が「国策」によってキャンバスの上に残されて100万ドルを超える値がつけられる。たぶんカーメにとっては絵は砂の上で描いてもキャンバスの上で描いてもあんまり違いはなかっただろう。ヤムイモさえ健やかに育てば。

 おそらく農場のこちら側の私たちにとってのみ、それは100万ドルの価値があるのだ。農場の巨大化がもうひとつの世界を飲み込み、都市の普遍化が更なる農場の破綻を生み出そうとする中、この中心はたった一つの中心などではなかった。いくつもの世界が中心でありえた多様な世界のあった証としてエミリー・カーメのこちら側での作品化は私たちに福音なのだ。

 たとえそこがもう戻れない世界であったとしても。


エミリー・カーメ・ウングワレー展4月13日まで
絶対行って http://www.nmao.go.jp/japanese/home.html





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