unsteady diary
riko



 金子みすずという女性

金子みすずという詩人は、
好きではあるけれど、すこし嫌い。
こういう表現をすると、割り切りたがるひとに怒られるかな。
つまりはどっちなんだ?って。

松たか子主演の、金子みすずを描いたドラマを見た。
しばらく前から頻繁にCMが流れていたから、
見た人もいるかもしれない。

金子みすずっていう人は、文学の才能に恵まれながら、
幸せでない結婚をして、自由に自分を表現することを許されないまま、
若くして亡くなった。

彼女はやさしくてやわらかな童謡を残したけれど、
読むたび、私はいつも哀しくなった。
そこには希望があるようでいて、
ほんとうはすべてを諦めているような気もしていた。

なるほどやさしい言葉を紡ぐひとだと思う。
だけど。
少女のままの視線を保ちながら大人でいる危うさみたいなものが、
感じられる気がして。
自由を奪われ、縛られたまま、それでもじっと耐えている
纏足の少女の姿が見えるようで。
少なくとも私にとっては。
ほっとする、癒される、そういう類のやさしさではなかった。
「働けど働けど…」って書かれるほうが、よほどいい。
そんなふうに直接苦しいと語る詩などないのに、
むしろ真綿で包まれている痛さのほうが、
辛い気がした。


数年前だっけ?
なんだか急に、金子みすずの詩が流行ったように思う。
メディアで取り上げられて、
ふだん詩なんてまるで触れることのない人たちが、
本屋で金子みすずの詩集を手に取る姿をよく見かけた。
確か私の伯母も、それから祖母まで本を買いこんでいたような気がする。

それはなんだか不思議な光景だった。
私にとっては、やわらかな言葉で哀しそうに呟く少女は、
どちらかといえば触れたくない人だったから。

けっして、不幸な人の書く詩がいやなのではない。
たとえば、私の好きな石垣りんや茨木のり子という詩人たちは、
けっして楽なくらしをしていたわけじゃない。
目を背けたくなるくらいの苦しさを曝け出して見せるけど、
それを不自然だとは思わないし
可哀相という言葉も出ては来ない。
彼女らは、這い上がろうとしているから。
疲れたときも、疲れたということで、自分をきちんと守ろうとしているから。
そうしてのたうちまわる姿が、むしろ強いから。

それに対して。
金子みすずの詩は、
童謡だからなのかもしれないが、
幸せになろうとしていないというか、
悪あがきをしない潔さ、美しさみたいなものが、
私にはどうしても馴染めなかった。

儚すぎて、
はっとするほど美しいのだけれど、
諸手を上げて受け入れるには、
なにかひっかかる。
そんな詩を書く人だというのが、私の印象。


すっかり有名になった金子みすずの、公式HPがある。
紹介文のなかに、「金子みすずの澄んだ優しい心」というフレーズを見つけた。

優しすぎる人よりは、
少しくらい自分勝手なほうがいい。
澄んでいるあまりに、汚水のなかでは生きられないより、
濁流のなか傷だらけになりながら生きているほうが
私は綺麗だと思う。

上手く言えないけれど、
金子みすずを、私はけっして嫌えない。
だけど少なくとも、
癒されるとか、道徳の教科書にのるような模範的な思いやりがあるからとか、
そんなそんな綺麗な理由じゃない。
童謡だからそんなふうに扱われてしまうのかもしれないけれど、
私は違和感を拭えない。
むしろやわらかな言葉だからこそ、
ぞっとする哀しさや、鋭い眼が生きてくるのではないのかな。

そんなにも素直で無防備な、いかにも幸薄げな詩をつくる前に、
まずは強引になんでもやって幸を引き寄せてよ、って思ってしまう。
そんな苛立ちを感じながらも、
強がらないゆえの透明感に惹きつけられる。
私はそうやって、これからも金子みすずの詩に触れるんだろう。


2001年08月27日(月)
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