unsteady diary
riko



 ぼーっとしていると


私は、あまり動かない。

マイナス方向へは大きいのだけど、
それは軸が自分なので、
自分の周りをぐるぐるとしているだけだ。

世界だったり、創られたものだったり、
そういう「刺激」であるはずのものが、
あまり届いてこない。

でも、まわりには自分が敏感だと思わずにはいられないくらい
動かない人も多くて。
はしゃいでいても、泣いていても、それがどこまで響いているのか、
響いてなくても響いていることにして動いている振りをして、
それを楽しんでしまうのが普通なのか、
そんなことをとりとめもなく考えていた。


自分の周りの人間、という狭い世界だけでなくて、
もう少し視野が広がった頃。
自分を確かめてみようと思った。
私は動きやすい人間なのか、そうではないのか。
本当に動くってどういうことなのか、それを見たいと思った。


映画、お金を払った分泣く、とのたまった友人の横で、
私はのめりこめなかった。
世界が滅びても。
恋人たちが抱き合っても。
それだけだという声が、どこかでしていた。

旅行はとても楽しいけれど、
人生観が変わるほどの景色ってなんだろうと思った。
はしゃいで、楽しんで、
でもそれがなくては生きてゆけないほど大切なものでもないんだろう。

お芝居を、面白かった、痛かったと心から思うとき、
どこまで自分のなかに染み込んでいるのか実はよくわからない。
突き動かされてなにかを変えられるわけではなかった。

音楽を、好きなつもりでいたけれど。
歌詞をそらんじるほど好きになるわけでもなく、
鳥肌が立つわけじゃなく、涙が出るわけじゃなく、
たぶんなくたって生きてゆけるんだろうと思った。


すべて中途半端なところで、感覚が止まっている自分を見た。
底から求める、渇きみたいなものが、たぶん足りないんだろう。
だから、素直に痛みに苦しむ人に、恍惚と自分の世界を泳ぐ人に、
憧れたのかもしれない。




∇追加


思い出したことがある。

なんで働くのか、お金の為に身を売るようなもんじゃないか、
別に娯楽のためにそこまでしなくても生きてはゆける…という話を、
友人としたことがあった。

潤いがないと人生つまらないじゃない、と彼女は言った。
確かになくては生きてゆけないものじゃないかもしれないけど、
あると楽しいでしょ?と。

このひとは、現実に近い。
私が自分を俗物的な人間だと思うとき、
私以上に俗っぽくて潔癖でなくて、そのくせ私の好きな部分を喪うことなく生きていられる人が、こうしてちゃんと存在するじゃないか、と彼女のことを思う。


別になくても生きてゆけるものばかりで、まわりをうずめる。
世のOLさんがすべてそうだとは言わないけれど、
私の知っている限り、そういうひとが多いような気がする。
少なくとも、大学で出会う人やOGにも、そういう人ばかりが目立つ。
それを嫌悪しながら、ミーハーな気持ちも湧く自分を意識する。

そういう生き方を、これから始めて、
きっと後悔していくんだろうと思うけれども、
よく不満を言ってるような嫌なやつになるかもしれないけれど、
他にどうしようもないから、それを選んだ。
あくまで、私の選択だ。


私が、こんなふうに不安を持ちながらも進もうとしているような社会人生活に、自分は向いていないから、と司法試験を受けることにしたという従姉(22)と3年ぶりに電話で会話する機会があった。
「rikoちゃんは誰かの指図を受けるタイプじゃないんだよ」
「私…ずっと憧れてたんだよ。なのに過小評価しすぎだと思う…」
いまさら言われても、聞けば聞くほど、“それ”は「私」じゃないような気がして頭痛がした。
いわゆる「私らしい私」を知っている人を「いまの私」に触れさせるのは、もうやめたほうがいいと悟った。


私がいちばん私の限界をよく知っている。
自分が俗っぽい人間だってことも、
たいして努力が出来ない人間だってことも、
体力的に無理が利かない人間だってことも、今回改めて意識させられた。
ある意味、5月の自分の情けなさは、決定打だった。


今年の司法試験の結果がわかったばかりで、
「努力するのも才能だよ」と慰めを口にした私に、彼女は
「努力だけじゃね…咽喉から手が出るほど、昔から貴方が羨ましかったんだよ」とぽつりと言った。
私は返す言葉が見つからなかった。

例え10年かけてでも司法試験に挑戦するというその勇気をすごいと私は思う。
けれど私は、彼女ほど一生懸命にはなれない。
それが答えだと思う。


2001年06月03日(日)
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