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ラミレスは本当に楽天に行ってしまうのか - 2004年11月06日(土)

今は全然読まないが、学生時代の一時期、辺見庸の著作が好きで読んでいたことがある。辺見庸は「自動起床装置」と言う、派手に見えるジャーナリズムの世界の地味な一場面を切り取った小説で芥川賞を取った作家である。ただ、私がハマっていた時期はむしろ「もの食う人びと」の著者として有名で、もの食う人びとの対となる「反逆する風景」と言う著作も読んだ。今はブッシュを目の敵にした癖のあるおっさんと言う風情だが、この癖というのは当時の著作にもある程度滲み出ていた。

そんなある日、大学の第二文学部(通称二文)創設50周年記念イベントと言うのが企画され、辺見庸が大隈講堂で講演をすると言うイベントが組まれた。辺見庸は二文出身で、OBと言うことで呼ばれたようである。学内誌を見てこれを知った私は、当日大隈講堂に出掛けて行った。

癖のあるおっさんを想像していった私だったし、大隈講堂を7・8割埋めた学生たちもそれを考えて足を運んだと思うのだが、実際には辺見庸は何となく恐縮しているように見えて、結構謙虚なイメージが強かった。語り口調は結構淡々としているが、話している最中に何度も額の汗を拭っているところから、意外と熱く語っているのだろうか、などとも思った。肝心の内容はどうだったかと言うと、これが当時の私は吸い込まれるほど面白い内容で、聴衆であるほかの学生たちも身を乗り出して講演を聴いていたのを覚えている。

話す内容は多岐に及んだが、そんな中で今日、数年前に見た辺見庸の講演の中のある1つのネタを思い出した。こんな話だった。

辺見庸の講演があるちょっと前、彼の学生時代の仲間と会う会があったらしい。その時旧友たちと再会して思ったのは、単に年食った仲間たちと言う訳ではなく、みんながみんな、学生時代と変わらない形で年を食っていたと言うことであった。熱い奴は熱いまま年を食い、セコイ奴はセコイまま年を食っていて、それを辺見庸は「全員が全員、相似形に老いている」と表現していた。つまり、年を食ったから人間が変わったということは皆無で、中身は昔のままだが、容貌だけが老いている、と言うのである。

今日は、大学時代のサークル後輩の結婚式だった。結婚したのは後輩同士で、彼らは大学一年から付き合っていて、遂にゴールインしたと言う二人である。新郎新婦がサークル時代の付き合いだった関係上、出席した連中もサークル関係者ばかりで、久し振りに一堂に会した会となった。

中学時代や高校時代の友達と縁が殆ど切れた私にとって、大学時代の友人は最も古い関係となっている。既に出会ってから10年が過ぎた。20代前後だった当時からすると、ほぼ全員が30代前後となった訳である。とは言え、まだ30代では容貌もそれ程変わらず、辺見庸の言う相似形に「老いる」と言う感じではないが、それでも年月を経て誰も変わっていないと言うのを感じた一日であった。

今はまだ全員が結婚しているわけではないので、これからも暫くは結婚式を理由に集まることが続くと思われる。しかしこの連中と会ってから20年、30年を経る内に、当然このような機会は少なくなる筈だ。この後10年後、20年後、この人々に会う際に、みんながみんな相似形に老いて行っているのだろうか、と想像しながら会に参加していた。


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