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 燃える家/アン・ビーティ

内容(「BOOK」データベースより)
ともに愛に破れたはずの親友に届いたラブレターを破り捨てる午後…『プレイ
バック』離婚歴のある恋人の16歳の娘とともにすごす、ある夏のバカンス…『浮遊』シングルマザーの友人の息子をつれて、妻子ある男性と重ねるデート…『身をゆだねて』未入籍の事実を知らない母親の60歳の誕生日に家族と集う海辺の家…『女同士の話』結婚生活の崩壊を予感しながらも、ホームパーティを開く夫婦の宵…『燃える家』
現代を生きる女たちの「ある日、ある時」―15の風景。“シチュエーションの作家”と呼ばれるアン・ビーティが贈る、珠玉の傑作短篇集。

目次
身をゆだねて - Learning to Fall
浮遊 - Afloat
プレイバック - Playback
シンデレラ・ワルツ - The Cinderella Waltz
女同士の話 - Girl Talk
重力 - Gravity
欲望 - Desire
ハッピー - Happy
いさり火 - Jacklighting
光と影 - Sunshine and Shadow
待つ - Waiting
駆けめぐる夢 - Running Dreams
ガラスのように - Like Glass
グレニッチ・タイム - Greenwich Time
燃える家 - The Burning House


お父さんとお母さんと子供、そして犬。一見普通の家族の姿のようだが、「どの家族もただ者じゃない!」。というか、どの話も両親は離婚していたり、不倫しているのがあたりまえで、それも「ある一瞬に離婚を決意した」とか、「さっさと恋人のほうを選んでしまった」とか「夫の恋人はホモだった」とか、かなり自己主張の強い人間ばかり。たった一度の人生だから、それはそれでいいと思うが、そういう大人の間で、子供はまるでドッジボールのようになっている。子供にふり回されず、それぞれ自分の人生を生きるという考え方は、非常にアメリカ的だとも言えるかもしれないが、あまりにもあたりまえに離婚や不倫が描かれているのが、私としては不快。子供のためにということでなくても、夫婦関係を続ける努力というのはないんだろうか?

と、まあ個人的な結婚観を述べても仕方がないが、とにかく、家庭をテーマにして、よくもこれだけいろいろな状況を考えつくものだと感心もした。つまり、そういうところが「シチュエーションの作家」と言われる所以なのかと納得。そういうことで考えれば、面白いと言える。作品の数を重ねるうちに、今度はどういう状況なのかと面白くなってきたのは事実だ。

どの作品も、話の冒頭は状況が良くわからず、この人たちはどういう関係なの?と頭を悩ます。そのうち関係がわかってくるのだが、だいたい主人公は女性で、相手の男性がいろいろ悩んで取り乱す場合が多いのに、女性たちは皆、冷静なことが多い。書き手が女性だからというのもあるだろうが、何やら恐ろしい気もする。

そしていきなり話題や状況が変わって、全然違う話になり(事態が展開するという意味ではない)、え?なんの話?となる。そういう書き方は、ヴァージニア・ウルフとかの「意識の流れ」というのに近いのだろうか?読んでいるほうは非常にとまどうし、個人的にそういう書き方は好きではないので困惑ものなのだが、「ウルフほどじゃない」と言っておくべきか。これは私の中では誉め言葉だ。

最も納得できないのが、すべての話の結末。これがどれもすっきり終わっていないので、気持ちが悪いのだ。書き手はうまく、あるいはきれいに結末をつけたつもりでいるのだろうと思われるが、これも私には好みでないと言うしかないのかも。そもそも話の内容が、けして明るいものではないから、どんなふうに終わっても、すっきりすることなどありえないのだろうが、どうも気に入らない。ハッピーエンドなのか、そうでないのかということとも違う、納得のできない一瞬で終わっている。登場人物は、読み手の中でいつまでも救われない。

こう書いてくると、アン・ビーティという作家を否定しているようだが、読み終えてみると意外にも面白かったと思えたので、けして否定しているわけではない。あとは好みの問題だろう。女性の視点で書かれているから、登場人物の気持ちや考え方に共感を覚える女性もいるだろう。そういう場合は、きっとはまると思う。私はどれも共感できないが。ただ、「シチュエーションの作家」というのはよくわかったが、「短編の名手」であるというのは、いまだに納得できない。これも好みの問題だろうか?

この短編集には、どの話にも植物の名前がたくさん出てきた。例えば『赤毛のアン』に植物の名前がでてくれば、それは主人公の性格や、周囲の状況とあいまって物語を盛り上げているので、とても効果的なのだが、ここではどんな植物を出しても、あまり意味を持たないような気がした。

それと、トールキンの『指輪物語・二つの塔』が出てきたが、アン・ビーティも『指輪物語』は読んでいるのか、それとも子どもの話の部分なので、年齢などを考慮して、そのあたりが妥当な本だと思ったのか定かではない。話は、離婚したお父さんのもとに遊びに行って帰ってきた子どもが、忘れ物をしたので届けて欲しいと言うが、『二つの塔』だけだったので届けなかったというもの。「離婚したお父さんのところへ行く」という状況も悲しいが、私がその年頃であれば、「指輪」の1冊は大切な本だったと思う。つまり、アン・ビーティにとって、『指輪物語』は大切な本ではないということなんだな、さらに言えば、こういった細かいところで、子どもの大切なものがわからない、自分本位なお父さんを描いているのか?とまで考えた。

ついでに言えば、カフカの『変身』に出てくる「虫」は、ゴキブリと明記されているわけではないのに、ビーティはゴキブリだと書いている(原文はわからないが)。これも、想像をたくましくせずに、読んですぐ「ゴキブリ」としか頭に浮かばなかったのだろうか?などと、またどうでもいいようなことを思った。

要するに、アン・ビーティ作品は非常に現実的。「状況を変えようとして血を流すのではなく、その流れに身をゆだねて浮遊し、優雅さを旨としている」(訳者・亀井よし子氏解説より)人々の話ばかりなのだ。

書いてあることは、実際にあるような男女の形、家族の形であったりするのだろうし、そこに共感を覚える人もいるだろうが、やっぱり私の好みではない。現実を見たくないというわけではないが、男女間のことでも家族のことでも、もっと違う世界に住みたい。「優雅」でなくてもいいから、『指輪物語』にロマンを覚え、『変身』のザムザは、一体どんな虫になったのだろう?とあれこれ考えるような人間でいたいと思う。しかし、苦手だ、感想がないと言いつつも、ここまで長々と(だらだらと?)書けたのだから、この本を読んでけして無駄ではなかったと思うべきだろう。

2003年10月29日(水)
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