いつも通りの光景だった。
六畳二間の仕切りを取っ払ったそこに、数人ずつが固まって碁盤を前にああだこうだと話している。
土曜日の和谷くんの研究会。
先日まではリーグ戦方式で対局していたけれど、棋聖戦真っ最中ということで、今はその結果を検討する形になっている。
「西宮九段のハネ返しは良かったよな」
「いや、おれならここで切り込んで中央を狙うけど」
持参したペットボトル飲料を飲みながら侃々諤々意見を戦わせる。
一応窓は開いているが、熱気でうっすらと額に汗が浮く。
「塔矢はどう思う?」
ふいに話を振られて我に返る。
「そうだな、ぼくだったら…」
何も変わらない。
あまりにも何もかもがいつも通りなので妙な気分だった。
夕べぼくは進藤と寝た。所謂そういう行為をしたのだった。
いつかはそうなるだろうと思っていたし、躊躇いも無かったけれど、明けて今日時間をずらしてこの場所に来て、不思議な感覚に陥った。
どうしてこんなにいつも通りなんだろうと。
ぼくの体のあちこちは軋み、肌の見えない場所には紅色の痕が散っている。 昨日の行為は通常とはかけ離れた所にあるものだった。
(でも、空は青いし)
朝食に食べたコンピにのおにぎりはいつもと同じ味だった。
買ってきてくれた進藤も、少し照れた様子ではあったけれどいつもとほとんど変わらなかったし、なんならここにくるために乗った地下鉄もいつもと同じ混雑ぶりだった。
それが悪いわけじゃない。
いくらぼくだって、初めてを経験したからと言って、天変地異が起こるなんて思ってもいない。
(でも…、それでも)
目の前に広がる光景があまりにもいつもと変わらなさ過ぎたので、つい言ってしまいたくなるのだ。
ぼくはそこにいる進藤と夕べ寝た。
体を重ねた。
セックスをした。
それに繋がって浮かんだ言葉に自分で少し驚いた。
ざまあみろ。
ぼくはもう、今までのぼくでは無く、彼もまた今までの彼では無い。
それをここに居る皆も家族も友人も誰も知らない。
ざまあみろと心の底から思った。
ぽんと肩を叩かれる。
「何?」
「そっち一段落ついたんなら、こっちでこの前の天元戦の予選の時のを並べてくれよ。あれ、面白い展開になったじゃん」
「いいけど、人が苦労した対局を『おもしろい』扱いとは失礼だな」
「いいじゃん、見ていてすごく面白かった。すげえ碁だって思ったからさ」
「まあ、いいけど」
声をかけて来たのは進藤だ。
彼の胸の内はわからないけれど、なんとなく機嫌がよさそうなのが腹が立つ。
「なあ」
場所を移るために立ち上がったぼくにこそっと耳元で進藤が言った。
「おまえさっき何考えてた?」
「何って」
「なんか、すげえ悪そうな顔してたぞ」
「…ふうん」
「もし昨日のこと怒ってるんなら」
「違うよ」
怖々言い出す進藤の言葉をぼくは途中で断ち切った。
「優越感に浸っていたんだ」
「は? 優越感?」
「うん。見えている物を見ようとしない。ありきたりの固定観念で人を判断しようとするから取り逃がすんだって」
進藤はきょとんとした顔でぼくを見ている。
「世界中に向かって思っていたんだ。ただそれだけ」
「おまえが言ってることさっぱりわかん無いけど…うん。でも、すっげえおっかないってことだけは解る」
「逃げ出すか?」
「まさか!」
小声ながらきっぱりと進藤は言った。
「やっとのことで手に入れたのを手放す馬鹿がいるか?」
「同感だ」
惜しがるだろうか?
悔しがるだろうか?
どちらでもいい。気がつかれる前にぼく達は、更に遠く誰も手の届かない所まで逃げ延びて行くのだから。
(本当に性格が悪い)
促されるまま盤の前に座ったぼくは、小さく胸の中でほくそ笑みながら、更にいい気味だと付け加えたのだった。
end
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