疲れていた。
ただもう疲れていたので、帰宅するなり一直線に寝室に行ってベッドに倒れ込んだ。
玄関やリビングで横たわったら間違い無くそのまま寝ると解っていたので最後の理性と体力を振り絞ったのだ。
でも服を脱ぐまでは出来なかった。
「……進藤、せめてスーツの上くらい脱げ」
「無理っ、てか、お前はコートすら脱いで無いだろうが」
「無理だ。もう動けない」
それもそのはず、ヒカルとアキラは昨日までタイトル戦の最終局を戦っていたのだから。
「それでも脱げよ、棋聖様がみっともねえだろ」
「それを言うなら元棋聖様も情けないな」
神経どころか命をすり減らすような対局だったので、一夜明けても疲れは全く取れておらず、それどころか直後の検討を含め、嵐のような取材と写真撮影で更にトドメを刺された感じだ。
「三年守ってたのに、とうとうもぎ取って行きやがって」
「だったらぼくの名人位も返せ」
つい先日、ヒカルはアキラが五年守っていた名人の座を奪ったばかりだった。
タイトルを獲ったり獲られたりはここ数年二人の間でずっと続いていたことだけれど、今回の棋聖戦が特にキツかったのは、名人位を奪われたアキラの激しい怒りが込められていたからだ。
正直もうどちらが倒れてもおかしくないというくらいの激しさだった。
「なのに、ちゃんと笑顔で取材に応じたおれ、おっとなー」
「それが普通だ。いつだったかの誰かさんみたいに座布団を蹴って退室してしまうようなのがおかしいんだ」
「勝手に言ってろ、くそっ」
本当は開催地の職員が色々と観光を予定してくれていたのだが、丁寧に辞退して二人して帰って来た。
東京駅からはタクシーを使ったが、それまでは気を張っていて居眠りすらも出来なかった。何しろ二人の顔は一般紙やテレビのニュースにもかなり露出していたからだ。
どこで誰が見ているかわからない状態で気を抜けるはずも無い。そうしてやっとたどり着いた我が家で、揃って限界を迎えたというわけなのだった。
「……玄関の鍵閉めたっけ」
「ぼくが閉めた。チェーンもかけた。褒めてくれ」
「ああ、ああ、偉いよおまえ。頭をなでくりまわしたいくらいだ」
「してくれても構わないが」
「いや、無理、もう無理、体が全然動かねえ」
そしてしばし沈黙が続く。
ほぼ意識を失いかけた状態のアキラの手に何かが触れた。ヒカルの手だった。
「……何?」
「ごめん。今日、バレンタインだった」
「そういえば、そうだったね」
毎年かかさないそれを忘れるくらいに、二人とも最終局に集中していたのだ。
「寝て起きて、そうしたらケーキかなんか買ってくるから」
「……いや、いいよ」
「棋聖位を貰ったからか?」
「違う」
触れて来たヒカルの手をアキラが握る。
「こうしてキミと居られるだけで充分だから」
チョコなんかより、二人で居られることの方が幸せだと、言われてヒカルは嬉しそうに笑った。
「そうだな、うん。おれも」
お前と二人で居られるだけで充分だ、他に何もいらないと言いかけて「次は勝つから」と言い直した。
「欲が深いな」
でもキミらしいと言ってアキラもまた微笑んだ。
そして。
秒で二人は眠りに落ちた。
疲れてへとへとで、服も着たまま、荷物もそこいらに放ったままで、でもしっかりと手を繋いだまま眠る、それはとても深く、温かく幸せな眠りだった。
end
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