それはふとした出来心だった。
棋院に向かう途中、ドーナツ屋の前を通りがかったアキラは、店の中にずらりと並んだクマの顔形のドーナツを見つけ、思わず足を止めた。
(可愛い)
普段甘い物は食べないくせに、そのあまりの可愛さについ一個買ってしまった。
(昼食代わりにすればいいか)
その時はそう思ったのだが、これがいざ食べようと思うと案外食べにくい。
対局時はいつもは昼抜きだし、食べても誘われて外に行くことがほとんどだったので知らなかったのだが、打ち掛け時の控え室は圧倒的に女性が多く、そんな中で男一人でドーナツを食べるのはなんともハードルが高かったのだ。
だったら控え室以外の場所でぱぱっと食べてしまおうと考えたのだけれど、休憩出来るような場所には既に複数の人が居る。
(別に、気にしなければいいんだ)
そう自分に言い聞かせてはみたものの、煙草休憩や自販機で買ったコーヒーなどを飲んでいる同性の同業者の前でドーナツを取り出して食べるのは、後で何を言われるか解らなくて躊躇われた。
(たかがドーナツ一個食べるのにこんなに苦労するなんて)
後悔したが既に遅い。
いっそ食べないで持って帰ろうかとも思ったが、その日はたまたま目覚めた時間が遅くアキラは朝食を食べていなかった。その上、夜は夜で指導碁があるので夕食を食べる暇も無い。
さすがに丸一日食事を抜いてしまうと体力的にキツイものがあるので、アキラは仕方無く食べる場所を求めて棋院内を彷徨い、やっとのことで空いている対局室の一つに落ち着いた。
ほっとしつつ、さあ食べようとドーナツを一つ取り出してアキラがかじりついた時だった。
どたどたと廊下を歩く足音が聞こえて、目の前のふすまが勢いよく開いた。
「あ、いたいた! おまえなんでこんな所に居るんだよ。見当たらないから探したじゃんか」
入って来たのはヒカルで、ドーナツをかじったままの体勢で凍り付いているアキラを見ると一瞬、ん? という顔になり、それからにっこりと笑った。
「それ期間限定のクマの顔のヤツじゃん。へー、おまえでもそういうの食うんだなあ」
かあっと顔が赤くなる。
よりにもよって一番見られたく無い相手に見られてしまったアキラは頭の中が真っ白で何も答えられない。
けれどヒカルはそんなアキラを気にした風もなくずかずかと近づいて来ると、座っているアキラの真正面に座った。
「で、メシの途中で悪いんだけど、来週末、社が遊びに来るんだってさ。おまえ予定大丈夫?」
こくりと小さく頷くアキラにヒカルが機嫌良く言った。
「そっか、じゃあ社にそう連絡しておくな」
久しぶりにみんなで打てるなと、にこにこ顔で続けるとヒカルはやおら立ち上がり、来た時と同じ唐突さで出て行った。
「じゃあまたな」
どたどたと足音が遠ざかって行く間、アキラはぴくりとも動かなかった。
そして何も物音が聞こえなくなってからようやく口の中のドーナツの欠片を飲み込むと、しみじみと己の運の悪さとヒカルの間の悪さを呪ったのだった。
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Q、どうしてヒカルはアキラの居場所がわかったの?
A、既に他の場所は全て探し、念のために空いている対局室を確認に来たら見つけた。&掃除のおばちゃんのチクリ。「塔矢さんならそっちの奥に行きましたよ〜」
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