| 2010年08月29日(日) |
(SS)満たされるということ |
進藤が手合いで関西棋院に出かけ、その後社くんと会うと連絡して来た。
もしかしたら泊りになるかもしれないと言われ、少し寂しい気持ちでいたら思いがけず緒方さんに食事に誘われた。
「珍しいですね、緒方さんがぼくを誘うなんて」 「たまにはいいだろう。進藤がいるとおまえはあいつにべったりだからな」
その進藤が居ない時くらい、久しぶりにおれとメシを食うのも良かろうと、連れて行かれたのは六本木の懐石料理店だった。
季節の野菜や季節の果物、旬の食材を使って丁寧に作られた料理はどれも上品な味で目にも美味しい。
「どうせ普段ろくなものを食っていないんだろうが」
ウニと白子をコンソメでゼリー寄せにしたものを口に運びながら緒方さんが言う。
「緒方さん程ではありませんが普通に食べてますよ」 「嘘をつけ、おまえ今年になってからあまり調子が良くなくて収入が減っているだろう」
進藤だって同じようなものなのだからたかが知れていると言われて腹が立つより溜息が出た。
「それでもこんな贅沢ものを食べていないだけで、普通にバランス良く食べています」
口に入れるととろりと溶ける、ゼリー寄せはとても美味しかったがこんなものを日常食べていたら罰が当たる。
「あんまり貧しい食事ばかりしていると貧乏舌になるぞ」 「緒方さんこそあまり飽食されていると倉田さんと見分けがつかなくなってしまいますよ」
お互いにちくりと刺さる軽口を叩いて、でも険悪にはならない。
何にでも辛口なこの兄弟子が、口ほどに意地の悪いわけでは無いと子どもの頃からの付き合いで良く知っているからだ。
今日だってたぶん、調子の上がらないぼくをこれで励ましてくれているつもりなのだ。
「…進藤は今日は帰って来るのか?」
前菜を終え、焼き物に箸を付けながら緒方さんがまたふいに口を開いた。
「さあ、手合いの後は友人と会うと言っていましたから」
もしかしたらそのまま帰って来ないかもしれない。
「あっちは遊ぶ場所が多いからな。案外そういう接待でもされているかもしれないな」
人の悪い笑みを浮かべながら言わずにはいられないのがこの兄弟子なのだ。
「さあどうでしょう。進藤は…緒方さんとは違いますから」
仕返しとばかりにぼくが返したらさすがに少々むっとしたものか睨まれてしまった。
「ほう、おまえの大事な進藤とおれと、どこがどう違うのか説明して貰いたいものだな」 「カードの限度額が違います」
にっこりと笑って言うと、緒方さんは鼻白んだような顔になった。
「なんだそれは」 「言葉通りです。進藤もぼくもまだ若輩者ですからね。緒方さんのように相手に気兼ねをさせずに奢ることなんか出来ません」
女性に対するスマートさも無い。だからもし万一そういう店に行ったとしても女性にはあまり相手にされないでしょうと言ったら、緒方さんは何ともむずがゆそうな顔になって、それから破顔一笑した。
「策士だなアキラ。持ち上げておいて今日の食事を奢らせるつもりか?」
おれだって別に特別羽振りがいいわけでは無いんだぞと苦笑しながら言う。
実際ここは六本木でもかなり敷居の高いタイプの店で、間違っても進藤と二人だったら来ないだろうなと思った。
彼は堅苦しい店が嫌いだったし、ぼくも何も理由も無く、こんな贅沢をしたいとは思わない。
気軽に食べる。ここはそういう種類の店では無いのだ。
「そうだったんですか? お誘いを頂いた時から、今日は緒方さんが奢ってくださるものだとばかり思っていましたが」
財布の中身が殊の外寂しい。帰りは身ぐるみ剥がれるかもしれないとわざと哀れっぽく言ったらまた笑われた。
「おまえは…本当にそういう所が小憎たらしいな」 「可愛らしい方が良かったでしょうか?」 「いや、そんなおまえは薄気味悪い」
言う方も言う方なら返す方も返す方だった。
それでも結局緒方さんは、気持ち良く食べ、気持ち良く飲んだ後に恩着せがましく言うことも無く、ぼくの分も払ってくれた。
やはり最初からそのつもりだったのだろうとそう思った。
「おまえも進藤も、早くこういう所で気兼ねなく美味い物を食えるよう努力するんだな」 「はい―心がけます」
そしてこれも奢ると言われたタクシーをさすがに断って、ぼくは一人電車で帰ったのだった。
時間はかなり遅かったし、ぼくは半ば以上、進藤は向こうで泊って来るものだと思っていた。
だからドアを開けた瞬間、中が明るいことに驚いて、おかえりと言われて更に驚いた。
「進藤―キミ、今日は泊って来るんじゃ無かったのか?」 「そのつもりだったけど、気が変わって帰って来た」 「だったら連絡をくれれば早く帰って来たのに…」 「かけたけど繋がらなかった。おまえ携帯の電源切ってたんじゃねえ?」
言われてしまったと思った。
連れて行かれたのが高級な料亭だったのでぼくはマナーを考えて携帯の電源を切り、再び入れるのを忘れていたのだ。
「ごめん。キミ、何時頃帰って来たんだ?」 「そんな前でも無い。社に会ってメシ食ってそれから帰って来たから」
家に着いたのは10時ぐらいだったかなと言う。
「そうか、ごめん。緒方さんと食事に行っていたから」 「ふうん。でもまだ少しは腹に余裕あるよな?」
えっと思う間も無く、ぐいと袖を引かれる。
「すっごく美味いの買って来たから温かい内に一緒に食おう」
何がなんだかわからない内に靴を脱ぐのももどかしく中に引っ張り込まれ、ダイニングテーブルに座らせられる。
「なんなんだ、一体」 「まあまあ」
はいこれと言って、進藤がぼくの目の前に置いたのは竹の皮に入れられた、たこ焼きだった。
「メシ食った後にさ、社がここのがすごく美味いからって連れて行ってくれてさ」
食べた所が本当に美味しかったので、そのままぼくの分を一つ買うと社くんに別れを告げて帰って来たのだと言う。
「そのまま? 一局も打たずに?」 「うん、社はなんか文句言ってたけど、すぐに帰らないと冷めちゃうじゃん?」
レンジで温めても良いようなものだけれど、そうすると絶対に味が落ちると思ったからと、進藤は言ってぼくをせっついた。
「とにかく食ってみろよ」 「…うん」
大阪のどこで買って来たのか知らないが、新幹線に乗ってここまで帰って来るまでにはとっくに冷めてしまったのではなかろうかと思いつつ楊枝を刺して一つ食べる。
「温かい…」
さすがに熱々という感じでは無かったが、驚いたことにたこ焼きはまだほんのりと温かかった。
「良かった。今夏だから冷たくはならないと思ったんだけど。少しでも温かい内に食べさせたくてさ」
屋台の人に頼んで新聞でぐるぐるにくるんで貰った上に、自分のスーツの上着にくるんで持って帰って来たのだと言う。
「スーツに? 皺になったんじゃないのか?」 「なったけど、まあ、後でどうせクリーニングに出すし」
それよかもっと食えってばと進藤はぼくを促した。
かりっとした香ばしい生地の中はとろりとクリームのように柔らかくて出汁の旨味が効いている。入っているタコも大粒で、なるほど確かにこちらで食べる物とはまるで違っていた。
「美味しい」 「だろ?」
絶対おまえも好きな味だと思ったんだと、進藤の笑顔は屈託無い。
「でも、だからって無理に帰って来なくても良かったのに」 「なんだよ、おれがいない方が良かったのかよ」 「まさか、そんなことあるはず無いだろう」
ただ、それでも久しぶりに会った友人と一局も打たずに帰って来たのは心残りでは無いのだろうかと思わずにはいられない。
そんな気持ちを見透かすように進藤は自分も楊枝をつまみながら言う。
「そんな心配しないでも、社にはまた今度行くからって言ったから」 「そうなのか?」 「うん。いつになるかは解らないけど、どうせまた向こうで打つ時もあるだろう? だからその時は今日の埋め合わせにおれがたこ焼き奢るからって言った」
何と言うアバウトな約束だろうか。でも社くんは苦笑するだけで怒らなかったと言った。
「そんならしゃーないって、でも二舟は奢って貰うって言われたな」
そしてそのときにはもちろん今日打ち損ねた分もしっかりと打って来るのだと進藤は言う。
「たこ焼き…か」
どうせろくな物を食べていないだろうという緒方さんの声が蘇り、ついさっき食べた様々な料理が脳裏をよぎった。
最高級の材料を使い、最高級の技術を使って作られた芸術品のような料理。
けれどそのどれよりも今目の前にあるたこ焼きの方がぼくには美味しく感じられた。
(貧乏舌か)
それならそれで別にいい。
進藤がぼくのためにスーツを一着無駄にして、急いで持ち帰って来てくれたたこ焼きよりも高級な料理を美味しいと感じるならばそんな舌は絶対に間違っている。
(ごめんなさい)
奢り甲斐の無い相手に大金を使わせてしまったことを心の中で密かに謝り、そして進藤に対しては微笑んで口に出して言葉で言った。
「ありがとう。本当にすごく美味しい」
持って帰って来てくれてありがとうと、繰り返し言ったら進藤は少しだけ照れた顔になった。
「そんな礼言われる程イイもんじゃないけどさ、でもまた何か美味いもの見つけたら買って来るから」
そうしたらまた一緒に食べようなと、言われた言葉に大きく頷く。
大阪での手合い、社くんと話したこと、向こうがどれだけ暑かったか。
そんな話を聞きながらぼくは彼とゆっくり交互にたこやきを一つずつ食べた。
彼がスーツを犠牲にして大急ぎで持って帰って来てくれたそれは、最後の一つまで冷めることなく、温かく美味しく口の中に消えたのだった。
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