「夕べ、蛇に噛まれる夢を見たんです」
ぽつっと話す声が聞こえたのは棋院の一階のロビーで、見るとエレベーターの前に塔矢と芦原さんが立って居た。
「眠っていると大きな蛇が側に来て、いきなり下腹を噛まれてしまって…」
おかげでまだ気分が良くないんですよと塔矢が溜息まじりに言う。
「蛇に噛まれるなんて、あまり縁起のいいものではないですよね?」 「んー、そうでもないんじゃないかなぁ」
対している芦原さんは何故か話を聞いた途端、にやにやとした笑いを浮かべ、塔矢の顔を意味ありげに見詰めている。
「なんですか?」 「いや、実はね蛇に噛まれるっていう夢は――」
そこでちょうどエレベーターが来て、二人は乗り込んで行ってしまった。
おれはなんとなく立ち聞きしてしまったような気まずさがあったのでわざと間を開けて、一、二分待ってからエレベーターに乗り込んだ。
六階で下りて、塔矢の姿を探そうとしたら待ちかまえていたように下足箱の側に塔矢が立っていたのでぎょっとする。
「……おはよう」 「おっ、おはようっ」 「さっきキミ一階に居たよね?」
なんだ気が付いていたのかと思いつつ「うん」と気まずく言う。
「なんで一緒に乗って来なかったんだ?」 「和谷が来るかと思って待ってたんだよ」 「和谷くんならもうとっくに来ていて中に居るけれど?」
つっけんどんな口調は責めているようで、おれは思わず口を尖らせる。
「なんだよ、立ち聞きしたって怒ってんのかよ」 「そうか、やっぱり聞いていたのか」
あちゃー、ひっかけられたと思ってみても後の祭りだ。
「…で、どこまで聞いた?」 「え? どこっておまえが蛇に噛まれる夢を見たって所まで」 「その先は?」 「先っておまえエレベーターに乗っちまったじゃないか」
だからその先の会話なんか知らないよと言ったらふうと何故か溜息をつかれてしまった。
「何?」 「キミも聞いていたように、夕べぼくは蛇に噛まれる夢を見た」
芦原さんだったからぼかして言ったけど、実は何も着ていない状態でぼくは寝ている夢だったと。
「それで?」 「そうしたらそこに蛇がやって来て大きく口を開けてぼくの下腹を噛んだんだ」
その蛇は金色の蛇だったよと、そこまで言われてもどうして塔矢が機嫌が悪いのかわからずにおれはきょとんと見返してしまった。
「で、それでなんでおれがこんなぎゅうぎゅうに締め上げられなくちゃなんねーの?」 「芦原さんに話したら夢の意味を教えてくれた。蛇に噛まれる夢はね、南の国では婚姻の印なんだって」 「え?」 「誰かに求婚又は求愛される」
もしくは誰かと…とそこまで言って塔矢は言葉を切った。
「なんだよ言えよ」 「誰かと結婚に相当する行為をするって言う暗示なんだそうだよ」
確か今日キミはぼくの家に泊りに来る予定になっている。その上で聞くけれど、この夢にキミは心当たりはあるんだろうかと言われて考えて、それからゆっくり赤くなる。
「あ……あることは…無いけど。無いって言ったら嘘になる」 「そうか…」
しどろもどろのおれの答えを自分で聞いておきながら、塔矢はみるみる赤くなって俯いてしまった。
「あっ、でもっ、でもっ、おれ無理矢理とかそーゆー」 「いいよ別に」
言いかけたおれの言葉を俯いたままの塔矢が遮る。
「いいよって…え?」 「ただ単にぼくは」
心構えをしておきたかっただけだからと、そしてそのまま触れようとしたおれの手を振り払うようにして対局場に行ってしまった。
「ちょっ…」
慌てて追いかけて肩を掴む。
「まだ――何か?」
赤い顔のままじろっとおれを睨む塔矢にたじろぎながらも辛うじて言う。
「大丈夫、心配しなくても優しく噛むから!」
おれは絶対痛く噛んだりなんかしないから安心しろと重ねて言ったら殴られた。
「ばっ―」
ぱあんと景気のいい音に部屋中の視線が集まる。
「バカじゃないのか、キミはっ!」
ぼくはそんなことを聞きたくて話したわけじゃないと、でもそれ以上の文句はちょうど鳴り響いた手合い開始のベルの音で遮られた。
「いいか、とにかくぼくは―」
真っ赤になりながら去って行く塔矢を見詰めながら頬を撫でる。
情け容赦なく殴られた頬はひりひり痛み、少し腫れているようだった。
(でも、あいつ照れてるだけだし)
なにより「いい」って言ってくれたんだからと、おれは去って行った塔矢の赤く染まった首筋を思い出し、そっと味わうように笑いながら、優しい蛇になってやるさと一人呟いたのだった。
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