| 2003年10月25日(土) |
愛に焦がれた胸を貫けG43−A4 |
指導碁が終わり家に着いたのは、夜の九時を少しまわった頃だった。
何度か請け負った方だったので、約束の時間に遅れたことは笑って許され、丁度もらいものの良い松茸があるからと、夕食をごちそうになってしまった。 その上、奥さんが出先で買ってきたという草餅までもらってしまって、これでは碁の指導ではなく客に行ったようだと帰り道、一人笑ってしまった。
甘いものはそんなに好きではないはずだけれど、餡の入っていない草餅は確か進藤の好物で、じゃあ帰ったら、途中になってしまった検討をしながら二人で食べようと思った。
(そう言えば、ありがとうもまだ言っていなかった)
焦って足を滑らせた棋院の階段、危うく頭から落ちる所をぼくは進藤に助けられたのだ。 けれど時間が迫っていたのと、進藤自身が「早く行け」と追い立てるものだから、一言の礼も言わず指導先に向かってしまった。
(進藤のおかげで怪我をしないですんだのに)
もしまだ進藤が夕食を食べていないようなら、何か作ってやろうと思った。 いつもは仕事のある日は疲れているからと、すり寄ってくるのを邪険にしてしまっていたけれど、思い切り甘えさせてやってもいいとそんなことも考えた。
ところが家に帰ってみると、ぼくの部屋の窓は明かりが灯っていなくて真っ暗だった。 いつものように待っているものだとばかり思っていたので、少しがっかりして隣の部屋の様子をうかがう。 するとそちらもしんと静まりかえっていて、帰っていないのだとわかった。
「和谷くんたちと食事に行ってしまったのかな」 明日は和谷くんの研究会だし、そのまま泊まりに行ってしまったのかもしれない。
なんだ、そうか。
そう思った瞬間、自分でも驚くほど落胆してしまった。
(進藤だって、進藤の生活があるんだから)
自分で自分を慰めつつ、ではこの草餅は一人で食べなければならないのかと、わびしい気持ちで包みをながめていると、唐突に電話が鳴った。
出てみると和谷くんで、疲れたような声で「やっと出たよ〜」と言われた。 見れば留守録のボタンが点滅していて、それが彼の吹き込んだメッセージなのだと気がつく。 「ごめん、今帰ってきた所だから。それで…なに?」 「あー、いやさぁ、実は進藤がちょっと入院しちゃってさぁ」
階段から落ちて、肋骨にひびが入ったのだと、聞いて顔から血の気がひいてしまった。 「おい、塔矢、聞いてる? 大したことないみたいだけど、出来たら着替えとか持ってきてやってくんねぇ?」
どう返事をしたのか実はよく覚えていないのだけれど、進藤の部屋に行き、ほとんど機械的に着替えを詰め込むと、ぼくは言われた病院にかけつけた。
病室には和谷くんがいて、ぼくを見るとほっとしたように笑って、「じゃあ後はまかせたから」と帰って行った。
進藤は…というと、ベッドの中、何故かこれから叱られる子どものような顔をしてぼくを見ている。
「…言わなくっていいって言ったのにさぁ…和谷のヤツが勝手に連絡しちゃってさぁ」
気まずそうにぼそぼそと言いわけめいたことを言う。
「大…丈夫…なの?」 「んー? 一週間くらいって言ってたけど」
ヒビって言ってもほんのちょっとだからと進藤は人の顔を伺うように言う。
「ごめ…」 微かに見える包帯が痛々しい。
あの時、進藤は笑ってぼくを見送ってくれたけれど、実際はひどく痛んだはずなのだ。
「ごめんね…ぼくが…悪いのに」
自分のことしか考えなかった、それが辛く、進藤に怪我をさせてしまった、それが悲しかった。気がつけば目から涙があふれていて―。
「わーっ、だから教えたくなかったんだよぅ」
泣いてしまったぼくを見て、進藤が、がばっと起きあがりかける。けれどすぐに「いててててっ」と顔をしかめて墜落するようにベッドに伏してしまった。
「大丈夫?」
そばに行き、包帯の上をそっと指でなぜる。
「へーき、ヒビ入るなんざガキの頃からしょっちゅうだったから」
こんなの怪我にも入んねーよと進藤は笑うけれど、嘘だと思った。
「痛いはずだよ、きっとすごく痛かったはずだよ」
どちらかと言えば痩せ気味とは言え、ほとんど自分と同じくらいの背丈のぼくを受け止めたのだ、平気なはずなんか絶対無いのに。
「んー、マジでさぁ、おれ平気だから泣くなよ」
お前が怪我する方がおれはよっぽど痛いんだからと、言って進藤はベッドサイドに立つぼくの腕をそっと掴んだ。
「指導碁、間に合った?」 「…うん」 「ちっとはおもしろい打ち筋だった?」 「うん…まあね。ずっと打ってらっしゃる方だから」 「後で棋譜、並べてみせてな。おれもうここ退屈でさぁ」
ぼくが気にしないように、わざと明るい物言いをしている。怪我をしたのだから自分のことだけ考えていればいいのに、どうしてキミはこんな時までぼくのことを気遣うのだろうと哀しくなった。
「…進藤」 「ん?」
こぼれ落ちる涙を片手でぬぐいながら言う。
「キミを…大切にする」 「え?」 「一生、キミだけを好きでいる。キミのことを誰よりも絶対、大切にするよ」 「なんだよ、それ…それじゃまるでプロポーズじゃん?」
おどけたように言いかけるのに、ぼくは泣きながら言葉を重ねた。
「そう…思ってくれてもいいよ」
進藤は一瞬、驚いたように目を見開いて、その顔を真っ赤に染めた。
「ば…おまえ、何言って…」 「嘘じゃないよ、本当にぼくは…」
キミが好き。キミをずっと大事にしたい。そう言うと、進藤は呆然としたようにぼくの顔をしばらく見つめ、やがて声も出さずに、静かに涙をこぼしたのだった。
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