Kin-SMA放言
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2005年02月05日(土) 渋谷でトラジ☆ハイジ

今日は衝動的に『SHAKESPEARE'S R&J』(PARCO劇場)を観に行ってきた。

渋谷駅を降りたとたん、オレンジ色の大看板(◎_◎;)目がチカチカ☆

トラジ☆ハイジのお出迎えでごんす。

皆さん、渋谷はトラジ☆ハイジに支配されております(大袈裟)

目指す渋谷PARCOは、ご案内のとおり現在ティポ祭り開催中。

スペイン坂を上ると、またまたオレンジ色の憎いヤツ(?)がで──んとお出迎え。

バレンタイン仕様の、はぁとvに囲まれたトラジ兄さんとハイジくんのでかいディスプレイがぼくを待っておりました。


←いつものことだが



それに、まだ“トラハイチョコレート”も発売前だったし、また今度来ることにして、目的地PARCO劇場へ直行(PARCO劇場は渋谷PARCOのPart.1、ミニショップはPart.3にあるのです)

話は最初に戻って、『SHAKESREAR'S R&J』は、4人の男性キャストだけで演じられる『ロミオとジュリエット』

厳格なカトリック系全寮制男子校の生徒が、舎監の目を盗んで夜中に遊び半分で始めたお芝居ごっこが、だんだんと(以下、ネタバレにつき略)という話です。

出演者は、若手人気バレエダンサーの首藤康之くん、テレビでおなじみの佐藤隆太くん、元ナイロン100℃の人気役者小林高鹿くん、そして元“ン・ダグバ・ゼバ”というより、最近のミュージカル界では“殿下”の方が通りが良い(笑)浦井健治くんという、マニアを唸らせる(^^ゞ 面々。




でも正直に申して、ぼくにはちょっと退屈な舞台でした。

皆さん真面目に取り組んでいたし、けっしてへたっぴいではないんだけど、ぼくの欲するレベルは、やっぱこんなもんじゃない。

藤原竜也のロミオを観ちゃった目には、ちょっとやそっとのレベルじゃ満足できない( ̄  ̄;)

なんでシェークスピアっていうと、皆さんああいう独特の節回しになるんでしょうかね? それは多分、セリフを翻訳した人の責任もあると思うんだが、今回の訳は松岡和子先生でございまして、こないだの蜷川×藤原×鈴木ロミジュリと同じです。

そもそも演劇人ではない首藤くんと、ニナガワ秘蔵っ子の竜也くんを比べること自体が間違ってるのかも知れないが、金とって芝居を見せてるという意味で同じ土俵だと思うから言います。

「恋人と逢っているときは、下校中の生徒のように心が弾み、恋人と別れるときは、登校中の生徒のように落胆している」

なんていうロミオのセリフを、竜也くんがいかに生き生きと説得力のある言い方をしていたか!

こんなセリフ、“詩を読むように”“名作の一説を朗読するように”しゃべるのなら、ちょっとませた小学生でもできるこった。

でも、このセリフで観客を笑わせちゃうんだな藤原竜也って役者は(なんか、“竜也礼賛”になってきたぞ・・・)

実を申すと、4人の中ではロミオ(首藤くんはこの一役。他の3人は色んな役を早替わりでやってた)のセリフ回しが一番気になった。最近では高校の演劇コンクールでも、こんな古風なセリフまわしには滅多にお目にかかれないなーと(ごめん、きつくて)



演出はこの作品を作った張本人その人であるジョー・カラルコ氏。なので、決してこの作品が目指す場所とかけ離れたとんちんかんな演出ではなかったと思うのだが。

最初はこの独特な「国語の教科書の朗読」みたいなセリフ回しは理解できた。そもそも、そういうものだからである。少年たちは「朗読」してるに過ぎないのだ。だが、観た後でプログラムを読むと、2幕以降からは、あきらかにセリフ回しは少年たち自身の本当の感情、本当の“演技”じゃないとならないってことがわかる。

でも、あんまりそうなってなかった。

残念でした。

こうしてぼくの“本気でハマれる役者探し”は続く。(完)




・・・終わるなっ!(自己ツッコミ)

でも、男性の役者がいわゆるオカマ芝居じゃなく女性役を演じ、恋人同士のキスシーンを演じ、それに対して過剰にスキャンダラスな捉え方をしなくなった現代日本の演劇シーンを鑑みるに、いい時代になってきたと思います。これってスタジオライフが台頭してきたぐらいからじゃないかなと思う。花組芝居なんかは逆にギミックっぽい方法で“女方芝居”を確立させたが、スタジオライフの“女役”の役者たちは、普通に女を演じてるもんね。

で、結果思ったのは、シェークスピアって、ホントいかようにも脚色できるんだな、偉大なり紗翁! と感慨を新たにしたのだった( ̄w ̄)





テレビ朝日が、すっかりサッカー一色になって(というのはオーバーだけど)慎吾団長もはりきってますね。

北朝鮮チームを分析する番組を観ながら、ほんま不思議な付き合いにくい国やなぁ、と思うと同時に、『SmaSTATION-4』でえもりんが「政治的なこととは別にがんばってほしいよね。スポーツって楽しいものなんだから」と言っていたことに大いにうなづく。

と同時に、モスクワ、ロサンゼルスオリンピックなどは言うに及ばず、さまざまなスポーツの国際大会が、いかに政治の影響を受けてきたか、政治に利用されてきたかなんてことは、枚挙に暇がない。

何が“平和の祭典”だ、と思ったことは幾度もある。

スポーツを国威高揚のために最大限利用しているかの国のことを、当然のこと日本はバカになんかできない。まさに60年前の自分たちの姿なんだからね。

だからこそ、「いつか私達みたいになるよ」と警告してやれる資格を、我が日本は持っているんだ。それはアメリカにも中国にもない、ぼくらだけに与えられた役目だ。誇りに思うべきだと思う。相手が聞く耳持ってるかどうかは別としてね。



先日の『ジェネジャン!!』(テーマ・韓国)について、ここで改めて補足したいと思う。つまらない人にはつまらないので、以下は読まないでも大丈夫ですよ。

前半のヨン様ブームとその周辺の女性たちについては、今までワイドショーでさんざん放映されてきたこと以上のものはなかったので、略。周囲に迷惑だけはかけないようにしてるのなら、何に熱中しようがおのれの勝手やろ、というのがぼくの感想。それこそ「バカ」と思われても、ほっとけやって感じ。熱中できるものがない人の方がよっぽど寂しいでしょ。

子供をいい学校に入れるとか、芸能人にすることに血道を上げるよりは、いいんじゃない? こっちは自分の中だけで完結してないから、子供を自己満足の道連れにしちゃうわけじゃん。ゆくゆく取り返しのつかないことになる危険性があるもんな。

そんなら、「芸能人に入れあげる」なんてのは、ビーズ細工や社交ダンスと同様、お金のコントロールさえ踏み外さなきゃ実に趣味のよろしい道楽だと思いますよ(な〜んか、自己弁護丸出し

あと、「韓国人と結婚したがる女たち」

家田荘子さんが『イエローキャブ』(このタイトル、叩かれたなぁ/苦笑)を書いた時代と、何も変わっとらんな。

ヤマンバねえちゃんが、「日本人の男に相手にされないからって・・・」と言っていたが、それは半分しか当たってない。それも多分にあるとは思うが、彼女たちから言わせれば、日本人の男が、彼女たちのお眼鏡にかなわないんだ、とにかく。

「選んでるのは私たちの方なのよ」ってことだもん。

でも、韓国人男性に群がる女性たちに一言。

あんたらが夢見てるほど甘くないぞ。(′_`)

ぼくのつれあいは在日だが、在日ってのは、実際“日本人”なんですわ。だからぼくは韓国人男性と結婚したとは思ってない。だから偉そうに言えないんだけど、

「女性に優しい」・・・はぁ?(^^ゞ

「家族を大切にする」・・・はぁ〜っ?(この日記は絶対ナイショなり/笑)

「目上の言うことは絶対」・・・ほぉ〜(−−;)

全て気のせいだ!(←暴言)

まぁ、儒教は確かに根付いていて(でも、基本的に現在の韓国人にはキリスト教徒が多い)、長幼の序ってのは厳格にあるが(つれあいは、父親の前では絶対にタバコを吸わない。ただ、母親の前では吸う。彼らの“長幼の序”なんてそんなもの。そういうとこがフェミニスト入ってるぼくにとっては許せないとこなんだが)、そんなのは悪いけど日本だって古い人間はみんなそうだ。トーホグの農村の三世代家族に生まれたぼくだって、同じような価値観の中で育ってきた。

ようするに、個人差のなせるわざでしょう。それはそれとして、男を「学歴」や「身長」「収入」でふるいにかける以上に、「民族」や「国籍」で選ぶってことのナンセンスさを、ぼくは指摘したい。しかもそこには何の“優性遺伝子的”根拠もないし。

むしろ「収入」で選ぶ人って、資本主義大国の女らしくて清々しいと思いますね(暴言2)

優秀な遺伝子を残すためなら、強い男を選ぶ権利が女にはあり、“強い男”とは、資本主義社会の中ではとりもなおさず“金持ち”ってことだ。

「腕力も美貌も性格の良さも要らない、金さえあれば」っていう女にぼくは喝采を送る。ホリえもんと結婚しろ(暴言3)

全部欲しがる女には「たいがいにせえよ」と言いたいが、言ってる女本人に美貌も性格の良さも怜悧さもあるんなら、多くを望む権利もあろう。文句を言ってる女には「お前にはないだろ」で済む。



あ、こんなアホな話をしてる場合じゃなかった。日韓問題について、あの番組で散見された誤謬について、どうしても言いたいのだった。

でも、これからちょっと出かけなきゃならないので、続きは帰ってから書きます。

では(ホントにゴメンね、今日の日記はつまりませんでしたね)


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