エンターテイメント日誌

2005年09月10日(土) 人類の歩みとキンゼイ博士の報告書

人類の歴史を紐解く時、ホモ・サピエンス(ヒト科ヒト属)としての自らの動物性を否定し、その身体能力を超えて全能の神の領域に一歩でも近づこうとしてきた歩みであると言い切ることが出来るだろう。

船や潜水艦の発明で海を制覇し、飛行機で空を、さらにロケット開発で宇宙まで飛び出していったこと、文字の発明、コンピューターからインターネットへの発展などもそのたえまぬ努力の現れである。原爆や水爆の開発だって同じだ。

神に近付こうという意志の端的な象徴が宗教の<発明>であろう(祈るという行為もホモ・サピエンス固有のものである)。ガリレオの時代、宗教は科学を弾圧したがそれは両者の利害が対立し、宗教が科学の台頭に脅威を感じ怖れたからたからであって、その行動原理の根っこの部分は実は同じなのである。

多くの宗教では聖職者は禁欲生活を美徳とする。性欲を否定し、(断食など)食欲を否定するその行為はつまり動物としての自己を否定しようという意思の表れである。その歪んだ価値観から派生した奇形が菜食主義者、ベジタリアンである。

菜食主義者どもは動物を食すること、つまり肉食を野蛮な行為として否定する。しかし、彼らにとっては光合成という営みで生きている植物を殺すことが同等の行為であるという事実に思い至らない。つまり彼らは植物よりも動物の命の方が尊いと考える差別主義者に過ぎないのである。

今から約30年くらい前は小学校の給食で普通に鯨の唐揚げが出ていた。筆者の大好物であった。しかし、国際捕鯨委員会(IWC)の理不尽な申し立てにより、日本の捕鯨は著しく制約され鯨が食卓に上がることは稀となった。彼らの言い分によると鯨は知能指数が高いから殺して食べてはいけないのだそうだ。これは単に日本人よりも豚や牛の摂取率が高い欧米人が鯨を食べないという食習慣の違いに過ぎない。

しかし、食鯨を野蛮と断罪するための理由付けとして知能指数を持ち出してきたのは笑止千万である。知能指数によって殺しても良い動物と駄目な動物を分けようというのだ。結局は彼らも差別主義者に過ぎない。かつて黒人を奴隷として、家畜同様の扱いをしてきた連中である、さもありなん。彼らの理屈に従えば知能指数の低い精神薄弱者は生きるに値しないことになる。これはユダヤ人のみならず精神病院の患者をも殲滅しようとした(犠牲者は20万人以上にも及ぶ)ナチスの思想に繋がる。これが人類の<進歩>の偽らざる有り様である。

さて、本題が大きく逸れた。映画「愛についてのキンゼイ・レポート」(←クリックで公式サイトへ)についてである。原題はシンプルにKinseyなのだが、配給会社のつけた邦題はあまり内容に則しているとは言えない。むしろ「性(SEX)についての…」の方が正しい。これは実に面白かった。評価はB+である。

まだ黒人差別が当たり前のように横行し、非米活動委員会によって<赤狩り>が行われたいた保守的な1940年代のアメリカに、タブーとされていた性生活について詳細かつ科学的な解析をしたキンゼイ博士がいたという事実は実に興味深い話である。だから彼にスポットを当てたこの作品は、今まで観たことのないタイプの実にユニークな映画として強く印象に残った。キンゼイ夫妻の夫婦愛も(紆余曲折はあるものの)実に麗しい。

昆虫学者だったキンゼイ博士の信念は実に明快である。人間も昆虫同様に動物なのだから、性交やマスターベーションなどは決して恥ずべき行為ではない。しかし人はそれをひた隠しにする。だからその実体を白日の下に明らかにしたい。ただそれだけである。しかし、動物であるという自己を否定し、それ以上の何者かになろうと虚しい努力を日々続ける人々にとっては博士の研究は許し難い、人の道から外れた行為だった。そうして博士は未曾有のバッシングに曝されていく。その過程は滑稽で、そして一寸哀しい。

キンゼイ博士を演じた名優リーアム・ニーソンが味わい深い好演。しかし、彼を見ていると未だに「ダークマン」(←クリック。「死霊のはらわた」「スパイダーマン」のサム・ライミ監督作品)を演じていた時の彼を想いだして笑いを噛み殺してしまう。まことに申し訳ない。だってあの印象が強烈だったんだもの。

キンゼイ婦人を演じたローラ・リニーも良いのだけれど、冒頭女子大生として若作りして出てきた時はギョッとしたなぁ。彼女は1964年生まれだからもう40歳を越えている。そりゃいくら何でも無理があるでしょう。キンゼイ博士との出会いのエピソードはもっと若い女優を起用しても良かったんじゃないかな。


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]