エンターテイメント日誌

2004年07月26日(月) 弾けない青春〜69 sixty nine

村上龍の自伝的小説「69 sixty nine」は87年の発売以来、映画化の企画が作者に持ち込まれたがなかなかGOサインが出なかった。しかし今回、脚色をクドカンこと宮藤宮九郎がするのならと遂に作者の許可が下りた。監督はPFFアワードでグランプリを受賞した新人、李相日である。

しかし映画はどうも弾けない。青春映画のはずなのに、若さゆえの勢いとか、熱い鼓動が感じられない。そして映画に描かれた1969年という時代の匂いが全くしない。結局その原因は映画の創り手たちの原作で描かれたものに対する愛情の欠如のためなのだろう。クドカンが1970年生まれ、監督の李相日が1974年生まれだからフラワーチルドレンとかベトナム戦争、ラブ&ピース、バリケード封鎖などに対しての想い入れもなければその時代を生きた人々への共感もない。彼らにとってそれらの用語は単なる記号であって実感が伴わない。だから物語が虚ろにに空回りするだけなのである。むしろこの物語は長谷川和彦(「太陽を盗んだ男」79’以降映画の仕事がない。ゴジ、映画「連合赤軍」はどうなった?)とか大森一樹(最近の仕事はお粗末だが「ヒポクラテスたち」80’の頃は勢いがあった)あたりの世代の監督が撮るべきではなかったか?

それからこの映画、お人形さんのように魂の欠けたヒロインが致命的に魅力がない。さらに映画の描写が兎に角下品である。映画「青い春」でも想ったのだが、排便行為をわざわざ画面に映し出し観客を生理的に不快にさせて、一体何が嬉しいのだろう?お前らスカトロ趣味の変態野郎か!?映画に対する礼節はないのか?日本映画を育ててきた先達に対して恥ずかしくは想わないのか?そういう訳でこの映画の評価はDである。

村上龍は「限りなく透明に近いブルー」「だいじょうぶマイ・フレンド」「ラッフルズホテル」「トパーズ」など、映画監督としての才能が限りなくゼロに近いことを世間に晒し続け、赤っ恥をかき続けてきた男だが(大体映画の製作費を回収できたことすら、一度でもあるのだろうか?)、自分の小説を他人に託す場合も人を見る目がないことを今回露呈してしまったという訳だ。惜しむらくは荒井晴彦脚色、大森一樹監督で企画が進んでいた「テニスボーイの憂鬱」の映画化が実現にいたらなかったことである。


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]