エンターテイメント日誌

2003年09月03日(水) 欧州映画の邦題に物申す。

「トーク・トゥー・ハー」、「オール・アバウト・マイ・マザー」、「オープン・ユア・アイズ」…これらはスペイン映画である。

「ライフ・イズ・ビューティフル」、「ニュー・シネマ・パラダイス」…これらはイタリア映画である。

しかし、何故これらの邦題は英語をカタカナ表記したものなのか??

配給会社の宣伝部はまず適切な日本語で邦題をつけるように最大限努力すべきである。それを放棄するのは怠慢以外のなにものでもない。しかし、百歩譲って原題至上主義も容認することにしよう。最近ではハリウッド映画も日本語に置き換えられず、ただ英語の原題をカタカナ表記したものが多いのは確かである。まあそれも時代の流れなのだろう。

だが上に挙げた例は原題ですらないのである。だってもともとはスペイン語やイタリア語なのだから。「ニュー・シネマ・パラダイス」ではなく「ヌーヴォ・シネマ・パラディソ」でなければ理屈が通らないだろう。結局これらはアメリカ公開時に英語に訳されたタイトルをカタカナ表記しているのである。日本人はどうして此れ程までにアメリカ至上主義、英語至上主義の売国奴に成り果ててしまったのか?ほとほと情けない。もしこれらの事態をおかしいと感じないのなら、貴方の感性は完全に狂っているとここで警告しておく。

なお、中国映画「HERO」は「英雄」という漢字を併記しているから許す(笑)。

さて、スペイン映画「トーク・トゥー・ハー(原題Hable con ella)」のお話である。ペルモ・アルモドバル監督は前作「オール・アバウト・マイ・マザー(原題Todo Sobre Mi Madre)」では男性にも潜在的に在る母性も含めて、総ての<母なるもの>への賛歌を奏でたのだが、今回の新作では女性への崇拝、憧憬を高らかに謳い上げている。今回彼がこだわるのは<母なるもの>といった観念ではなく、具象的に女体の造形美そのものであり、彼が希うのは劇中のサイレント映画「縮ゆく恋人」が象徴するように母胎回帰なのである。

もの言わずベッドに横たわるレオノール・ワトリングの裸体が息を呑むほど美しい。むしろ彼女の肉体を獲なければ、この映画の成功はなかったと言い換えても良いだろう。

ワトリング演じる眠れるバレリーナ、アリシアを愛し、献身的に看護し語りかけ続けるベニグノ、そして女闘牛士リディアを愛し、それゆえに植物状態になった彼女に語りかけることも出来ぬマルコ。このふたりの男は一見、対称的に見える。しかしアルモドバルは映画の最後に、ふたりとも自らが創り出した幻影を抱いていただけで、結局は一方通行の愛を注いでいたに過ぎなかったことを明らかにする。その転換が真に鮮やかであった。これならば、スペイン語で書かれながらも米アカデミー脚本賞を受賞したという輝かしい栄光も実に大納得である。傑作。

余談であるが、チャーリー・チャップリンの娘ジェラルディン・チャップリンがこの映画にバレエの先生役で出演しており、久しぶりに彼女の元気な姿が見れて懐かしく、嬉しかった。彼女が映画デビューしたのが父と共演した「ライムライト」(1951)。当時彼女は7歳くらい。その後も映画史に残る名作「ドクトル・ジバゴ」(1965)や「愛と哀しみのボレロ」(1981)等の出演作を僕は観ている。しかし、彼女がスペイン語を喋れるとは吃驚したなぁ、もう。


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]