エンターテイメント日誌

2003年02月01日(土) 浅田次郎はあざといか?<壬生義士伝>

「壬生義士伝」「鉄道員(ぽっぽや)」を書いた浅田次郎といえば僕にとってあざとい小説家の代名詞である。しかし、浅田が極めてあざといと感じているのは僕だけではない。その証拠に検索エンジンGoogleで「浅田次郎」と「あざとい」をキーワードにウェブ上を検索してみれば明白である。なんと140件もヒットする。「浅田次郎」と「あざとさ」なら64件、「鉄道員」と「あざとい」なら89件、「壬生義士伝」と「あざとい」なら28件ヒットする。これだけ沢山の人が同様の感想を抱いているのである。

「鉄道員」は高倉健主演で映画化されたが、もうその次から次へと送り出されているあざとい手練手管に心底うんざりさせられた。最後に物語に都合よく脳卒中で主人公が死ぬ場面に至ってはもうそのお涙頂戴の古くささに失笑しないではいられなかった。浅田次郎の小説は演歌の世界である。しかも「鉄道員」のプロットは明らかにやはり映画化もされたロバート・ネイサンの幻想小説「ジェニーの肖像」(こちらは大傑作)のパクリであり、この模倣小説に直木賞を与えた選考委員の無知蒙昧には呆れるしかない。ましてや映画「鉄道員」に作品賞、監督賞、主演男優賞など8部門も与えた日本アカデミー賞は狂気の沙汰。だから故・黒沢明監督から「日本アカデミー賞には権威が無い。」と批判されたりするんだ。「鉄道員」を観て泣いたような輩とは、決してお友達になりたくないなぁと真剣に想っている。感性が全く合わない。

映画「壬生義士伝」のあまりの評判のよさに「もしや・・?」と僅かな期待をして観に行った僕が馬鹿だった。浅田次郎は所詮、浅田次郎でしかなかった。お涙頂戴のご都合主義。「この場面で読者(観客)にどれくらい涙を流させてやろう。」という作者の計算が見え見えで白けてしまう。「鉄道員」の時もそうだったのだけれど、浅田の作品世界って昔流行った童話「一杯のかけそば」を彷彿とさせるんだよね。あの胡散臭さがプンプン匂い立つのだ。あるテレビ番組で原作者の栗 良平さんが「一杯のかけそば」を朗読するのを、横で徳光和夫アナウンサーが涙を流しながら聞いていたのが強烈な印象として脳裏に焼き付いているのだけれど、徳光さんみたいな純粋で信じやすい人(もちろん皮肉ですよ)は映画「壬生義士伝」を観ても号泣するんだろうなぁと映画を最後まで観ることの苦痛に耐え忍んでいる間中、ず〜っと考えていた。

特に主人公が自害を果たす前にシェイクスピアの芝居の如くその心情を延々と独白する場面には閉口した。作者の内なる声が聞こえる、「さあ、ここで思いっきり泣きなさい」と。しつこい!くど過ぎる!中井貴一よ、お前はハムレットか!?未練がましいぞ。さっさと武士らしく潔く死ね。

そしてようやく中井が自害した後に、のこのこ現れた三宅裕司が泣きながら死体に握り飯を突き出して「喰え!」と言う場面には大爆笑した。オイオイ、お前が中井に自害しろと強要したんだろうが。今更そりゃあないだろう!?武士の情けなら腹を切らす前にお前自身が喰わしてやることが出来ただろうに。ただただ観客を泣かせる為だけの自己矛盾。こりゃコメディだね。だからスーパー・エキセントリック・シアター主宰の三宅裕司をキャスティングしたんだと納得した。

この救いようのないお笑い草映画で唯一気を吐いていたのが久石譲さんの音楽。最近前面に出てこない控えめな仕事が多かったが、今回は臆することなく美しいメロディが全編に朗々と響き渡る。聴いていて気持ちが良い。音楽で盛り上げないと映画の間が持たないという久石さんの悲壮な使命感が伺えて、微笑ましかった。


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]