頑張る40代!plus

2006年09月15日(金) 詩が書けない

『スランプ』
 思い通りにならないことを 
 悩まなくてもいい
 思い通りにならない時は 
 思い通りにならないんだから
 それは流れの中の通過点なんだから
 その場所に自分がいるんだから
 スランプ面なんかしなくてもいい
 無理にいじらなくてもいい
 思い通りにならないことは
 決して不幸なんかじゃない
 それはその時の自分なんだから

早急に仕上げなければならない曲があるのだが、昔はあれだけ楽勝だった詩が、今書けなくて困っている。
いや、書いて書けないことはないのだが、ただ言葉を並べるしかできないのだ。
そこには情感も、思想も見つからない。

日記やエッセイといった散文は、情感や思想といったものを、文章の中に織り込んでいけばいい。
だが、詩の場合は、それを行間に織り込まなくてはならない。
それがややこしいのだ。
その作業を、日記のようにいちいち考えてやっていたら、頭が変になってしまう。

では、これまでぼくがどうやって詩を書いていたのかというと、とにかく思いつくままに筆を動かしていたのだ。
どちらかというと、殴り書きをしていたといったほうがいいかもしれない。
とはいえ、ただ殴り書きをしていたわけではない。
背景には、ちゃんと情感や思想というものがあった。
そういったものの昂ぶりが、詩になって現れたわけだ。
言い換えれば、感性で書いていたということだ。

ところが、ぼくの感性というのは実に気まぐれで、書ける時と書けない時があった。
書けない時は何ヶ月も書けない。
とはいえ、焦りはなかった。
「今は書けない時だ」と割り切ることができたからだ。
そこには感性の自覚というものがあったのだ。
ところが、今は割り切ることが出来ないでいる。
その感性が見えなくなっているのだ。

なぜそうなったかというのを考えてみたのだが、どうも毎日日記を書く生活が影響しているように思えてならない。
5年以上も休まずに日記のことを考えてきたため、きっと頭の構造が散文的になってしまっているのだろう。
器用な人なら散文と韻文の両立もできるのだろうが、ぼくは何ごとも不器用に出来ている人間である。
そのため、散文と韻文の両立なんて出来ない。
いつもどちらかに偏っているわけだ。

早く曲を仕上げなければならないのに…。
「詩が書けない!!!」
これがぼくの中で、ちょっと深刻な問題になっている。


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