『スランプ』 思い通りにならないことを 悩まなくてもいい 思い通りにならない時は 思い通りにならないんだから それは流れの中の通過点なんだから その場所に自分がいるんだから スランプ面なんかしなくてもいい 無理にいじらなくてもいい 思い通りにならないことは 決して不幸なんかじゃない それはその時の自分なんだから
早急に仕上げなければならない曲があるのだが、昔はあれだけ楽勝だった詩が、今書けなくて困っている。 いや、書いて書けないことはないのだが、ただ言葉を並べるしかできないのだ。 そこには情感も、思想も見つからない。
日記やエッセイといった散文は、情感や思想といったものを、文章の中に織り込んでいけばいい。 だが、詩の場合は、それを行間に織り込まなくてはならない。 それがややこしいのだ。 その作業を、日記のようにいちいち考えてやっていたら、頭が変になってしまう。
では、これまでぼくがどうやって詩を書いていたのかというと、とにかく思いつくままに筆を動かしていたのだ。 どちらかというと、殴り書きをしていたといったほうがいいかもしれない。 とはいえ、ただ殴り書きをしていたわけではない。 背景には、ちゃんと情感や思想というものがあった。 そういったものの昂ぶりが、詩になって現れたわけだ。 言い換えれば、感性で書いていたということだ。
ところが、ぼくの感性というのは実に気まぐれで、書ける時と書けない時があった。 書けない時は何ヶ月も書けない。 とはいえ、焦りはなかった。 「今は書けない時だ」と割り切ることができたからだ。 そこには感性の自覚というものがあったのだ。 ところが、今は割り切ることが出来ないでいる。 その感性が見えなくなっているのだ。
なぜそうなったかというのを考えてみたのだが、どうも毎日日記を書く生活が影響しているように思えてならない。 5年以上も休まずに日記のことを考えてきたため、きっと頭の構造が散文的になってしまっているのだろう。 器用な人なら散文と韻文の両立もできるのだろうが、ぼくは何ごとも不器用に出来ている人間である。 そのため、散文と韻文の両立なんて出来ない。 いつもどちらかに偏っているわけだ。
早く曲を仕上げなければならないのに…。 「詩が書けない!!!」 これがぼくの中で、ちょっと深刻な問題になっている。
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