| 2006年03月02日(木) |
家電人生に終止符を打つ |
ぼくが5年間という長い浪人時代を経て、社会に出たのは1981年3月2日だった。 就職先は大型家電専門店だった。 その前1年間、長崎屋で修行したのちに、そこに入ったのだが、その時点からぼくの家電人生が本格的に始まったわけだ。
奇しくもちょうど25年経った今日、つまり2006年3月2日にぼくの家電人生は終わった。 同じ日に始まり、終わるというのも何か因縁めいたものを感じる。
ということで、今日はお別れ会があったわけだが、ぼくはなるべく人と顔を合わさないようにしていた。 なぜなら、そういう別れというのが基本的に苦手だからだ。 とにかく、洒落た文句が吐けない。 出てくる言葉は、いつも「お世話になりました」だけである。 それ以上に言葉を発しようとすると、急に言葉に詰まってしまう。 そうなると、なぜか目が潤んでくる。 それを見られたくないのだ。
前の会社を辞めた時、送別会でこの状態に陥ったことがある。 部下にはなむけの言葉を贈られたときだった。 部下の涙に、言葉を失ってしまったのだ。 とりあえず「お世話になりました」とだけ言っておいたが、見る見る目が潤んできた。 そこでぼくは、慌ててトイレに駆け込み、顔を洗ったものだった。
「男は滅多なことで泣くものではない!」 小さい頃から、周りの人にそう教えられてきた。 そのため、小学校4年以降、ぼくは泣いたことがない。 いや、泣いたことはあるのだが、人前で泣いたことはない。 泣く時は、親にも涙を見せなかった。 そのせいか、母は「この子はドライやけ、わたしが死んでも泣かんよ」といつも言っている。 しかし、それは違う。 ぼくは人知れず泣く男である。
さて、今日でピリオドを打ったぼくの家電人生だが、この25年間、いや長崎屋時代を含めて26年、いろいろなことがあった。 最初に物を売ったのは、長崎屋に勤め始めてちょうど1週間目だった。 お客さんから、「このマッサージ器を説明してくれ」と言われ、わからないなりに一生懸命説明した。 それが良かったのか、お客さんは「じゃあ、これをくれ」と言った。 10万円以上する商品で、お金を受け取った時、手が震えたのを覚えている。
それで自信を付けたぼくは、次々と家電商品(電子楽器含む)を売っていくようになる。 この26年間で売った商品の最高単価は120万円、お客さん一人に売った最高額は250万円だった。 一番楽しかったのは長崎屋にいた22歳の頃で、一番充実していたのは周りの電気店や楽器店と売り上げを競っていた29歳の頃だった。 で、一番つらかったのは、今日だった。
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