| 2005年09月28日(水) |
延命十句観音経霊験記(5) |
それ以来、ぼくは鬱状態になることはなかった。 おそらくこれからも、そういう状態にはなることはないだろう。 それは、延命十句観音経のおかげで、深く悩みに囚われたり、縛られたりすることがなくなったからである。 というより、悩みを持った時、ぼくはこの経を唱えることにしたのだ。 すると、同じように霊験は現れる。 例のヘソの下が、何かすっきりした気分になるのだ。 そうなるとしめたもので、すでにその悩みは消えているのである。
ある時には知恵をも与えてくれる。 困った問題が起きた時、自分の頭であれこれと考えて解決しようとすると、失敗することが多いものだ。 しかし、いったんこの経にすべてを預けてしまうと、意外なところから解決法が見えてくる。 それがまた絶妙な解決法で、問題のほとんどはそれで解決してしまう。 まさに仏の知恵というものだろう。
よくよく考えてみると、ぼくはこの経と縁があったのだと思う。 きっと鬱状態というのは、その経に入る方便として、仏が与え賜うたものなのだろう。 だからぼくは崩れなかったのだ。 そして、その後も霊験を見続けることが出来たのだ。 今はそれが長いお経でなくてよかった、と感謝するばかりである。 面倒くさがりのぼくのことだから、仮に長いお経だったら、きっとすぐに飽きていたことだろう。 鬱状態から解放されたあとに、一度だけ、観音経(妙法華経観世音菩薩普門品)に挑戦したことがある。 が、「念彼観音力」とか「福寿海無量」といった有名な言葉は覚えたものの、お経自体は覚えられず挫折してしまった。
ところで、冒頭でぼくが唱えることが出来るお経は二つあって、その一つは般若心経だと書いた。 その般若心経は、十句経を覚え鬱状態から脱出した後、そう観音経に挑戦していた頃に、勢いで覚えたものである。 この経も霊験あらたかで、霊障に遭った時にこの経を唱え、何度も救われたことがある。 だがこの経は、それほどぼくとは縁がないように思えるのだ。 なぜなら、このお経を唱えると、いまだにとちってしまうからだ。 やはり、ぼくには延命十句観音経しかないのである。
さて、タイトルにわざわざ『霊験記』などと謳っているので、何らかの奇跡を期待した人もいるかもしれない。 そういう人は、これまでの話を読んで、拍子抜けしたにちがいない。 中には「ただ単に、精神状態が元に戻っただけの話じゃないか」と思っている人もいるだろう。 しかし、はたからどう思われようとも、あの日のぼくにとって、あれは確かに奇跡だったのだ。 今もその思いは強く持っている。 だからこそ信じられるのだ。
− 延命十句観音経霊験記 完 −
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