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2005年03月06日(日) 20世紀少年18巻を買う(後)

普通、空中浮揚といえば静寂を伴っているものだが、写真で見る麻原の顔にはそれがなく、スピード感があった。
走っている人のようにゆがみ、髪は強風にあおられたように乱れていたのだ。
何の解説もなしにそれを見たとしたら、まさか空中浮揚しているとは思わないだろう。
そこにあるのは、変な格好をしてジャンプしているおっさんの姿なのだから。

あの頃のニュースやワイドショーは、オウムのことなら、どんな小さなことでも取り上げていた。
ちょうど今の北朝鮮報道のようなものだ。
視聴率を取りたいがためか、タイトルの上にはいつも『仰天!!』の文字があった。
しかし、見てみると、どれも先の空中浮揚のような茶番でしかなかったのだ。

彼らは、そういうくだらないことを信じているオウムの信者たちを、「サティアンという隔離された世界で生活しているせいで、世間というのがわからなくなっている」と評していたが、くだらないことを真剣に論じている自分たちのことがわかっていたのだろうか。
きっと彼らは、自分たちが『仰天』することは、世間の人も『仰天』するとでも思っていたのだろうが、そういう彼らこそ「世間のことがわからなくなって」いたのではないか。
言い換えれば、信者が麻原を盲信したように、彼らも「大衆は無知だ」ということを盲信していたわけである。

さて、その麻原だが、空中浮揚にこんなオチがあった。
後日説法の場で、空中浮揚の話になった。
その時麻原は「おれ、空中浮揚したよなあ」と、幹部に同意を求めたという。
これがすべてを物語っている。
自分が空中浮揚したのだから、他人に「空中浮揚したよなあ」なんて同意を求める必要もないだろう。
同意を求めるというのは、自分に自信がない時に起きる人間の習性である。
よほど自分に自信がないのだろう。

ところで、宗教人というのは、こういう『奇跡』を見せつけて信者を獲得することが多い。
日蓮やキリストがそうだったように、今も昔もそれは変わらない。
そういえば、その日蓮の流れをくむ新興宗教は、その宗祖でさえ出来ないような奇跡を語って、信者を勧誘している。
高校時代、先輩の家に勧誘に来た人が、「わたしはねえ、交通事故で腕を切断したんやけど、この宗教に入って奇跡が起こってねえ、腕が生えてきたんよ」と言っていたという。
先輩の家の人はそれを聞いて、「帰ってくれ」と言った。
それが普通である。
しかし、宗教に走る人というのは、それが普通だと思っていない。
『なんでもいいんだよ。彼らはなんでもいいから、信じたいものがほしいんだよ』
“ともだち”の言うとおりである。


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