| 2005年02月24日(木) |
亀渕昭信のオールナイトニッポン |
昨日、テレビにカメが出ていた。 現ニッポン放送社長の亀渕昭信のことである。 声は幾度となく聴いたことがあるし、写真も何度か見たことがあるのだが、動画を見たのはこれが初めてである。 昨日はだいぶお疲れのようだった。 まあ、連日、食うか食われるかの闘いをやっているわけだから、疲れているのも仕方のないことだろうが…。
しかし、ぼくらのカメも年を取ったなあ。 ぼくが『亀渕昭信のオールナイトニッポン』を聴いていたのが、今から35年も前のことだから、それもしかたないといえばしかたない。 その分ぼくも年を取ったわけだから。
そういえば、ぼくは一度だけ、カメのオールナイトニッポンにリクエストはがきを出したことがある。 中学1年の冬のことだった。 確かクライマックスの『花嫁』をリクエストしたと思うが、その時書いたコメントが、今の日記のように長くなったのを憶えている。 何を書いたかというと、その年の秋に来た、教育実習の先生のことだった。 その先生は近くの大学に通う、玉城さんという沖縄出身の女性だった。 普通、教育実習は出身校でやることが多いが、その先生が母校でやらず、大学の近くにある中学を選んだ理由は、きっとその当時の沖縄がアメリカだったためだろう。
ぼくは、その頃はおしゃべり人間だった。 授業中も落ち着きがなく、よく突拍子にないことを発言していたものだ。 先生の初めての実習授業でも、「先生、屋良主席はお元気ですか?」などと訳のわからない質問をしたのだった。 突然、授業に関係のない「屋良主席」が出てきたせいか、先生は当惑していた。 が、「お元気ですよ」とサラッと流していた。 実習は2週間ほどだった。 先生と親しくなるにつれ、けっこうプライベートな話などをしていたような記憶がある。 先生が沖縄に戻った時に手紙をもらったのだが、「おしゃべり好きのしんた君と記憶しているけど…」で始まり、最後は「屋良主席からもよろしくとのことでした」で締めくくられていた。
リクエストはがきは、その手紙をもらった時に書いたものだった。 先生の初めての授業から最後の授業までをダラダラと書き、最後にお決まりの「先生には幸せになってほしい」という文章で終えたのだった。 そのダラダラ文で、はがきのスペースほとんどを費やしてしまった。 そのため、肝心のリクエストを書くスペースがなくなってしまった。 そこで、ダラダラ文の下のわずかな余白に、「クライマックスの『花嫁』かけろ」と小さな字で書いたのだった。 で、そのリクエストカードが読まれたのかというと、定かではない。 そのリクエストカードを出してから、必死にラジオにかじりついていたのだが、いつも途中で眠ってしまったために、確認できなかったのだ。
そうそう、先日『時間ですよ昭和元年』を見ていると書いたが、あのドラマにカメの妹、亀渕友香が出ている。 亀渕友香といえば、ゴスペルの第一人者。 兄妹共にご活躍なわけだ。
昨日の記者会見を聞いて思ったのだが、オールナイトニッポンで活躍していた頃のカメと比べると、声に張りを感じなかった。 まあ、フリートークではなく、公式の記者会見だったから、ああいうしゃべりをせざるを得なかったのだろう。 しかし、「これからもフジサンケイグループの一員としてやっていきたい」と言った時のカメは、あの頃を彷彿とさせる声に戻っていた。 ああ、もう一度『亀渕昭信のオールナイトニッポン』を聴いてみたいなあ。
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