先にも書いたが、ぼくは東京にいた頃、毎月1回以上は浅草に行っていた。 あれは、夏の帰省前のことだった。
いつものように浅草に行き、お参りをすませた後で、境内をブラブラしていた。 前の日に、ぼくは帰る仕度をするために徹夜をした。 その疲れが、境内をぶらついている時にどっと出たのだ。 どこか喫茶店にでも入ろうかと思ったが、手持ちは帰りの電車代くらいしかない。 しかたなく、浅草寺本堂裏のベンチに腰掛けた。 そこでボーッとしていた時だった。 前の方から初老のおじさんが、笑いながらぼくに近づいてきた。 えらく人なつっこく笑うので、一瞬「知り合いかな」と思ったほどだった。 が、浅草に知り合いはいない。
おじさんはぼくの前に立つと、「こんにちは」と言った。 そこでぼくも「こんにちは」と言った。 「いい天気ですねえ」 「はあ、いい天気ですね」 「ちょっと横に腰掛けてもいいですか?」 「どうぞ」と、一人でベンチの真ん中に座っていたぼくは、場所を空けた。
「どちらから、来られましたか?」 「八幡からです」 「ああ、八幡ですか。製鉄の」 「はい」 「観光か何かで?」 「いえ、今はこちらに住んでいるんです。今度帰省するんで、観音さんに参っておこうと思って」 「ほう、それはいい心がけですねえ」 「はは…」
しばらく語っていたのだが、話は長くは続くことなく、そのまま途切れてしまった。 時計を見ると、もう夕方の4時を過ぎている。 そこで、『さて、そろそろ帰ろうかな』と思い、立ち上がろうとした。
その時だった。 おじさんが、急に手を伸ばしてきて、ぼくの股間をつかんだのだ。 あまりに突然のことだったので、何がなんだかわからなかった。 が、ようやく事態を理解したぼくは、おじさんをキッと睨み付けた。 するとおじさんは、平然とした顔で「なかなか大きいですな」と言う。 実は、おじさんがつかんだのは、ぼくの一物ではなく、座った時に出来るジーンズの膨らみ部分だった。 局部には触られてはいないものの、この画は様にならない。
「やめて下さい!」 ぼくがそう言うと、おじさんはニヤニヤしながら「まあまあ」と言い、鼻息を強めた。 『これはまずい』と本能的に思ったぼくは、おじさんの腕を逆手に取り、股間から外した。 ぼくの力が強かったためだろうか、おじさんは腕を押さえていた。 もちろん、二度目のチャレンジはしてこなかった。
「ふざけるなっ!」と言い捨てて、ぼくはその場を立ち去った。 その際に、おじさんは小声で、「気をつけて帰りなさいよ」と言った。 その言葉にカチンと来た。 が、ぼくは振り返らずに歩いた。 少し離れたところまで行き、おじさんのほうを見てみると、すでにおじさんはいなかった。 「懲りて帰ったか」と思っていると、何と横のベンチに座っているではないか。 おじさんの横には、男の人がいた。 いかにもひ弱そうに見える、小柄な男だった。
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