『いま』
いま、いやな時が続いています。 早くここから抜け出したいのです。
時の続く限り少しの夢が欲しいのですが、 時は冷たく過ぎ去っていきます。
いま、いやな雨が降り続いています。 もう傘には穴が開いているのです
ちょっとだけ傘を修理(なお)す時が欲しいのですが、 雨はいつまでも降り続いています。
いま、いやな時が続いています。 そして時は冷たく過ぎ去っていきます。 (1975年6月作)
学生の頃までは、とにかく雨が嫌いだった。 雨を遊ぶ余裕を持ってなかったのだ。 そういうことなので、梅雨は一年中で一番嫌いな季節だった。 この梅雨と前後して、1学期の中間テストや期末テストがある。 これも梅雨という季節を嫌いにした原因の一つだった。 じめじめした気候に加え、外で遊べないというストレスも加わる。 とにかく学生時代は、梅雨といえば、心身共に非衛生な季節だと思っていた。 「梅雨さえ終われば、楽しい夏休みが来る」などと自分を精一杯励まして、この季節を乗り越えていたものだ。
『いっしょに歩こう』
夜も濃くなる街 寂しさだけの遠吠え 雨もやんだばかり もう傘をたたんで 通り過ぎていく車 照らしていくネオン いっしょに歩こう たった二人だけで
雲の透き間の月 かすかに影を映し 夢のようなランデブー 公園のベンチはぬれ 何もかも忘れ すべては一つ いっしょに歩こう たった二人だけで
時の間に水は落ち 気がつくと空に星 水たまりに目を落とし まぶしさに目を閉じる もうすぐ夜は明ける 小鳥たちは歌う いっしょに歩こう たった二人だけで (1976年5月作)
予備校に通っている頃から、梅雨に対する考え方が変ってきた。 「今、もしかしたら人生の梅雨時期なのではないだろうか」、ふとそういう思いが頭の中を巡った。 そう思えるようになったことで、今まで大嫌いだった梅雨に、何となく親しみを抱くようになった。 この時期をいっしょに過ごしてくれという気持ちから、この詩は出来たのである。 別にいやらしい意味はない。
『雨の降る夜は』
雨の降る夜は たった一人で 蚊取り線香の 光を見つめて 蛙と一緒に 歌を歌うと 見知らぬ人が 傘を差して通り過ぎる
街はぬれ 人はぬれ あたりは変わり 色は濃く
遠くの船の 音に惹かれ 異国の街に 立っているような
いま雲の すきまを星が 瞬きよりも 速く過ぎていった 声を落として ギターはなく 耳を澄まして 人はなく
街はぬれ 人はぬれ あたりは変わり 色は濃く
寂しい雨の 寂しい歌 ううん楽しい 楽しい雨の歌 (1976年6月作)
6月の天気といえば、あまり雨が降ることがなく、かといって晴れているわけでもなく、いつもどんよりと曇っているというイメージがある。 蒸れたような空気が立ちこめ、息苦しくも感じる。 何となく薄暗く、朝なのに「もう夕方か?」という気分さえしてくる。 『いっしょに歩こう』の時に得た思いを持つ以前は、もちろんこういう天気は嫌いだった。 しかし、この詩を書く頃には、「梅雨の天気もまた良し」という気持ちになっていた。 一度楽しみを見つけると、後はいいところばかりが見えてくるものである。
ということで、梅雨は好きな季節の一つになった。
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