今日、しんたの愛人はとうとう10人になってしまった。 その内訳は、ぼくの部下にあたる人が5人、その隣の部署の人が5人である。 何のことはない、仲間内である。 つまり、「あんたが入るなら、私も入る」という軽いノリで参加しているわけである。
それにしても、いったいこの集まりは何なのだろうか? もちろん『しんたの愛人』というのは冗談である。 おそらくは、『しんたの愛人』という名にかこつけた仲良しグループを結成したということなのだろう。 そこには、しんたはいない。
しかし、ぼくも変わったものである。 十年ほど前にああいう噂を聞いていたら、「ふざけるな!!」と目の色を変えて怒っていただろう。 それが、今では「日記のネタ」である。 それだけ大人になったのだろうか? それとも、昔に戻っていっているのだろうか?
ぼくは小さな頃から、いわゆる逆境を遊びに変える人間だった。 詩や歌も、元々はそういう中から生まれたものである。 19歳の頃に作ったものが特に優れている、と自分では思っているのだが、その理由は、その時期が人生最大の逆境の時期だったからだ。 その逆境の時期、ぼくが何をしていたのかというと、実は自分を客観的に観察するという遊びをやっていたのだ。 その副産物が、詩であり、歌であった。 また、その延長がこのサイトである。
30歳の頃、ある人の中傷から、左遷され、外回りに回されたことがあるのだが、その時も「やったー。好きなところに行って、美味しいものを食べられる」と喜んでいた。 毎日、地図を片手に、市内の有名な店を軒並み回った。 その延長が、4月改装工事時の『せっかくだから、お昼のグルメツアー!』である。 また、その時は車での移動を許されなかったため、すべて公共の交通機関を使って移動していた。 それをまた楽しんでいた。 電車やバスで知らないところに行くというのは、胸がわくわくするものである。 後年、ローカル線の旅にはまったことがあるが、それはこの時、体験したワクワク感が忘れられなかったからである。
こうやってみてくると、ぼくは逆境にいろんな遊びや楽しみを見つけている。 それが、後年役に立っている。 もしかしたら、今回の『しんたの愛人』騒動が起きたのも、今が逆境だからなのかもしれない。 もちろん、今が逆境であるという自覚はないが、将来、この時代を振り返った時、あの頃は逆境だったと言っているかもしれない。 そして、「そういえば、あの頃『しんたの愛人』などというグループを作ってはしゃいでいた。今考えてみれば、あのノリが今に続いていると思う」などと言っていることだろう。
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