| 2003年01月18日(土) |
センター試験に寄せて |
今日からセンター試験である。 今仮にぼくが受験生だったとしても、その年頃にはすでに受験勉強の才能のなさを覚っていたぼくには、センター試験などは無縁のものだったに違いない。 おそらくセンター試験の日も知らずに、駅前あたりでせっせとストリート・ライブをやっていたのではないだろうか。
ぼくの18,19の頃といえば、興味のない受験よりも、音楽のほうに入れ込んでいた時期である。 英単語を覚えるよりも、ギターコードを一つ覚えるほうが大事だった。 英作文を書くよりも、詩を書くほうが大切だった。 長文読解よりも、歌を歌うことのほうが必要だった。 ぼくの運命は、その時期に、ぼくに受験勉強を習わせようとせず、楽しんで生きる術を習わせようとしたのだろう。 そのことを、今となっては感謝している。 当時『試験に出る英単語』で覚えた単語はすべて忘れてしまっているが、当時作った歌や詩は今もなお生きているのだから。
話は変わるが、よく東大生を差す時「あの人、頭がいい」などと言う。 しかし、ぼくはその言い方には否定的である。 ぼくの知る頭のいい人とは、例えば老子のように、自分の才能を包み隠し、あたかもバカのように振る舞える人のことである。 東大君は頭がいいのではない。 東大に行く才能を持ち合わせているだけのことだ。
才能といえば、東大に入るすべての人を、あたかもオールマイティの才能の持ち主のようにもてはやす人がいる。 では、聞こう。 東大に入る人のすべてが、よどみなく英語を話せるとでも言うのだろうか。 東大君のすべてが、音符を読めるとでも言うのだろうか。 また、すべての東大生が、日ペンの美子ちゃんみたいな字を書けるとても言うのだろうか。 ぼくの知っている東大出の人は、英語はだめ、歌も字も下手だったし、世間的な常識も欠けていた。 オールマイティなら、こんなことはないはずであるが。 案外、そういう人は「東大、すごいねえ」などと言って持ち上げておいて、実はからかっているだけなのかもしれない。
明治時代、禅宗の高僧がいた。 高僧は学のない人だった。 それを聞いた東大生が、この高僧をぎゃふんと言わせてやろうと、寺に乗り込んだ。 高僧と相まみえ、東大生が理論を展開しようとした時だった。 意を覚った高僧が、「腹の中のものを全部捨ててから来なさい。その時語り合いましょう」と、静かに言った。 東大生はそれを聞いて、すごすごと引き下がって行ったという。 つまり、東大生の知識の学問が、高僧の生き学問に見透かされたわけである。
今日からセンター試験だ。 明日もセンター試験か。 ・・・・・ まあ、どうでもいいや。
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